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腕はあるけれど品のない山賊から品も腕もある武士へ

株式会社横引シャッター
代表取締役 市川 慎次郎

 創業から現在に至るまでの変遷について教えてください。

株式会社横引シャッターは、駅の売店などでよく使われている横に引く特殊なシャッターの専門メーカーです。私の父である市川文胤が1970年に上下シャッターの修繕を手がける株式会社中央シャッターを創業し、メンテナンス事業の中で「他社さんの横引シャッターの動きが悪い」という声を受けて、動きがいい上吊り式の横引シャッターを開発し1986年に株式会社横引シャッターを設立しました。

設立当初は、まだ横引シャッター自体の知名度が低かったため、鳴かず飛ばずの時代が長く続いていたのですが、JAPAN SHOPやグッドリビングショーといった展示会に出展して徐々に知名度を高めてきました。

最初に大きくヒットしたのがお台場のヴィーナスフォートです。展示会を始めてから小口の仕事はパラパラと頂けていたんですが、1999年に開業したヴィーナスフォートで各テナントが一斉に横引シャッターを採用してくださり大きなヒットとなりました。

二回目のヒットは2003年頃、一般住宅への提供が始まったことです。それまでは、商業施設や発電所、造幣局など特殊施設での取り付けが多かったのですが、一般ユーザー向けにも取り付けを始めたことで、商業施設・特殊施設・一般住宅の三本柱となりました。



御社の経営理念は何ですか?

先代の父が創業当初から掲げていた「商売(あきない)は益(えき)を求めて商売(あきない)ならず、人喜んでこそ商売(あきない)なり。」という社訓を今も大切にしています。人が喜ぶことで結果的に利益が生まれるのであって、利益を得ることを目的として商売をしてはならないという教えです。

この言葉は私が子どもの頃から父によく聞かされていました。父からは「ビジネスに限らず何事も自分の利益を考えるのではなく、人が喜んでこそという気持ちでやりなさい」と口うるさく言われていましたね。

先代の父から会社を託された二代目として、私は創業者の遺志を継ぐことを一番大切にしています。経営上の判断を下すときも、常に父だったらどうするかを考えるようにしているんです。創業者が立ち上げた会社なのだから、私の会社ではないという感覚を持っているからです。

とはいえ先代の時代は良かったことが、今の時代にとっては良くないということはあります。木の幹と枝で例えるなら、古い枝は落とし新しい枝を生やす。けれども木の幹はいじらないというイメージでやっているんです。創業当時の基本理念は絶対にブレてはいけないと思っています。



先代の遺志を守り続けていくため取り組まれていることはありますか?

私の個人的な目標として「先代の証明」というテーマを掲げています。先代の父を直に知っている社員が徐々に少なくなってきているため、父から直接教育を受けてきた私が、父が教えてくれたことは間違っていなかったということを証明したいと思っているんです。

正しさだけでなく父のやり方で間違っていたことがあったとしたら、ダメなものはダメだったと証明するつもりです。ただ、ダメだったという結果が出るからこそ、次の新しい一手が打てると思っています。

これは決して創業者を神格化しようとしているのではありません。等身大の父の遺志を残していきたいんです。創業者として父の存在があったからこそ現在の横引シャッターがあるということを伝え続けていきたいですね。

中小企業は毎日が煩雑なので意識していないと徐々に忘れていってしまいます。そのため、社員たちにはことあるごとに創業者の想いから外れていないか意識させています。皆に意識させるよう喋ることで自分自身が外れていないかセルフチェックにもなっています。また、創業者だけでなく、これまで会社に貢献してくれた過去の社員の人たちの名前も出して、横引シャッターの企業文化が薄れていかないように常に気を配っています。

現在の取り組みとしては、今までは口伝されてきたことを文字として残していきたいと考え、創業者の想いをまとめた本を作る企画を進めているところです。



市川社長は学生時代どのように過ごされてきましたか?

中学生から高校二年生くらいまでは、髪の毛は金髪、ピアスは7個開けていて、とにかくヤンチャでした。高校に入学して10日間で停学になったこともありました。そんな学生時代だったので早い段階から勉強の面では諦めていましたね。「学生の本分は勉学ではなく遊びだ」と偉そうに能書きを言っているような学生でした(笑)。

ただ、勉強は捨てると決めたものの、社会人になってからは絶対に負けないと決意していました。勉強で負けを認めた以上、社会人で負けたら自分の人生はずっと負けっぱなしになると思ったからです。

高校二年生のときに、たまには親子の会話でもしようと思い、仕事から帰ってきた父に話しかけたところ、こちらに一瞥もくれず返事一つ返されなかったことがありました。ウチの家は挨拶と返事には非常にうるさく、相手と喋る時には顔を見て話しなさいと教えられていたため、「私はふざけるな!」とすごく怒ったんです。

翌日、愚痴っているのを聞いた母親から「お父さんは朝から晩まで、この会社を守るため、家族を守るために一生懸命働いて、声が出なくなるほどお客さんや社員さんたちやみんなに話をしてきているんだよ。でも隣で大きくなった息子が色んな話をしてくれることは、お父さんにとって一番の幸せだと思う。」と言われ、そういうものなのかと急に納得した思いになりました。

その次の日から髪の毛を真っ黒にしてピアスも全部外しましたね。そういう格好をしてヤンチャしていることが格好いいと思えなくなったんです。会社と家族を支える父の姿が本当に格好良く思えて、高校二年生からはずっと親父のようになりたいと思ってきました。


その頃からお父様の後を継ぐことは意識されていましたか?

小さい頃から「今の暮らしができているのは会社のおかげであり、社員さんたちが一生懸命働いてくれているからこそだ。大きくなったら恩返しをしなければいけない」と教えられて育ってきたので、後を継がないという選択肢は私にはありませんでした。

大学生の頃、同じような経営者の息子たちの中で、後を継ぐ継がないの議論になることもありましたが、そんなことで議論になること自体が私にとってはナンセンスでした。他の人たちからすると望んでも手に入らないような武器を持っているのに、それを手放してしまう心境が理解できなかったんです。

ただ、高校生の時から自分はトップよりもナンバー2になりたいと思っていました。トップに立つ人間はカリスマ性があるが、組織が大きくなるか小さくなるかを決めるのはナンバー2の腕前次第だという持論を持っていたんです。三国志でも劉備より諸葛亮孔明に憧れていました。

自分の性格的にもナンバー2の方が性に合っていると思っていたのですが、社長の息子なので口に出すことはできません。将来的には会社を継ぐことになると覚悟はしていました。そのため、大学を卒業後は父の会社に当たり前のように入社しましたね。


入社されてから社長に就任されるまでの経緯を教えてください。

入社当時、総務部と兼任で経理部に所属していたのですが、会社の財務状況が非常に悪かったことに驚きました。当時の売上高が2億円だったのに対して9億円の負債を抱えており、完全に債務超過の状態でした。

しかも、債務のうち給料の遅滞、税金の滞納、仕入先への未払いが三分の一を占めており、残りが銀行借り入れという最悪の状態で、父のカリスマ性だけで保っているような状態だったんです。私はこの頃を「暗黒の時代」と呼んでいます。

現実的に考えて、こんな借金だらけの会社を継ぐのは嫌だなぁと思ったのが正直なところです。自分には父の会社を辞めるという道はなかったので、どうすればいいのかを考え抜いた結果、父の目が黒いうちに借金を返してしまうことを決意しました。

負債を完済するべく、経理部を通常の部門と負の遺産を整理する部門の二つに分けて、私が負の遺産係の責任者を担当しました。2004年のことです。今でも負債総額を記した紙が残っていますよ。

無駄を徹底的に排除してコツコツと返済を続け6年で7億円の借金を返済し、銀行からの借り入れ以外は全てクリアにすることができました。特別な才能や能力がなくてもたくさんの知恵と、人並み以上の努力と、時間をかけることで必ず成果に結びつくという経験をさせていただきました。

「暗黒の時代」を乗り越えた矢先、2012年に父が急逝してしまったため、急遽私が代表に就任することとなります。本当に突然のことだったため、心の準備ができていないままの代表交代でした。



先代の急逝に伴い社長に就任されたとのことですが、経営者の自覚が生まれたのはいつ頃だったのでしょう?

先代は典型的な中小企業の親父であり、超がつくほどのワンマンでしたし、アイデアマンとしても優秀でした。とにかく圧倒的なカリスマ性を持っていたんです。元々ナンバー2になりたかったこともあり、代表に就任した直後は父の存在が大きすぎてプレッシャーに押し潰されそうでした。

社長になった三十代半ばの頃は、あまりにも重責を感じすぎて「世の中の大人はこんなにも重たいものを背負って毎日ニコニコしているなんて凄いな、自分はまだまだ子どもだな」と毎晩のように考えていましたね。ところが、ある時「違う。誰もが背負っている重みではなく、経営者が背負わなければならない重みなんだ」と気がついた途端、肩が軽くなったような気がしたんです。

肩の荷が軽くなったことで視野が広くなり、半人前な経営者である自分に付いてきてくれている社員たちに申し訳ないと思うようになりました。社員は歯をグッと食いしばって社長に付き従ってくれています。社員たちが自慢できるような社長になろうと意識が180度変わりました。代表に就任して半年後のことです。その時が社長としての本当の第一歩だったと思います。



社長に就任後、どのようなことに取り組まれてきましたか?

暗黒の時代を乗り越えたとはいえ、まだ会社としてはこれから持ち直していかなければならないというタイミングで、古くからの社員が井の中の蛙になってしまっていたことを大きな課題として感じていました。

当時、中途採用しかしていなかったのですが、中途で入社してきた社員に対して既存の社員が教育する仕組みがまったくできていませんでした。そこで思い切って新卒を採用することを決めたんです。

新卒は中途とは違って教えてあげなければ何も分からないのは当然です。強制的に「弟・妹」的な存在をつくることで、既存の社員を「お兄ちゃん・お姉ちゃん」に仕立て上げることが目的でした。おそらく先代の時にはここまで大鉈は振るえなかったと思います。

人材の面では他にも、外国人技能実習生も積極的に受け入れるようになりました。近い将来、人口が減少し労働力の確保が難しくなることは確実なので、外国人労働者の受け入れは必須だと思っています。その時になって急に受け入れを始めても間に合わないため、今のうちから外国人を受け入れて組織が、外国人雇用に馴染んでもらうようにしているんです。

会社のブランディングとして新しいことにもチャレンジしています。その一つが「中央通信」という広報誌を毎月発行するようになったこと。案外距離の遠いメーカーとエンドユーザーの距離を縮めるために、製品PRを一切しないこと、自分たちのモノづくりへの想いや考え方を掲載することをコンセプトに編集しています。

また、「カニ部長」というゆるキャラ制作してプロモーションに活用しているのもブランド戦略の一環です。先代の時代だったら「仕事は遊びじゃない!」と3時間はお説教されていたかもしれません(笑)。ガツガツしていない方が好まれる今の時代だからこそのプロモーションだと思っています。

イケイケで攻めの強いタイプの先代とは異なり、私はどちらかというと守りが強いタイプなので、「これ買いませんか?」という“売る営業”はあまり得意ではありません。お客様から「これください」と言っていただける“買ってもらう営業”に力を注いだんです。

売る営業は営業マンに担当してもらい、社長である私は買ってもらう営業をしているんです。買ってもらう営業のためにはお客様の注意を引きつけておかなければなりません。いつも注目してもらえるようするためのブランド戦略なんです。PRに使える費用は限られていますから、たくさんの知恵を使わないとダメだと思っています。



現在はどのような目標を掲げられていますか?

私が二代目に就任してから「山賊から武士へ」という最大のテーマを掲げ、その他に各部署ごとに「武士の自覚」、「古き良き時代の復活」、「社長戦力外通告」、「その時歴史が変わった」、「魅せる工場化計画」の5つのテーマを掲げています。

「山賊から武士へ」には、腕はあるけれど品のない山賊から、品も腕もある武士になろうという意味を込めています。将来武士になりたいと周りの子から憧れるような会社になりたいということです。

「武士の自覚」は私が担当しているテーマで、代表に就任してから駆け足で次の段階へと登ってきたため、一旦立ち止まって自分たちが武士へ向かっているかを見直そうということを意味しています。

工事部の「古き良き時代の復活」は、仲間でありながら傷の舐めあいではなく、ライバルのような距離感でお互いが切磋琢磨していた昔の工事部の関係性をもう一度復活させようというテーマです。

営業部の「社長戦力外通告」は、この会社から社長を追い出せと。何らかの要因で社長が不在になった場合に会社が機能不全に陥るリスクを回避するため、通常業務は社長がいなくても回るような仕組みの構築を目指しています。

次長クラスの「その時歴史が動いた」は、中間管理職を養成するためのテーマです。日本の歴史を遡ると歴史が動く瞬間はトップが入れ替わるときなんです。そういう時は明智光秀や石田三成のように中間管理職が芽を出すときでもあるんですね。次長クラス5人のうち3人をメインにこれからの新しい横引シャッターの歴史を作れと言って、彼らの思うとおりにやらせています。

購買部の「魅せる工場化計画」は、これまで基本的に出入りがNGだった工場を、お客様からのご指名があれば見せられるような工場にしようという取り組みです。



掲げられたテーマはどの程度達成されていると思われますか?

「山賊から武士へ」という最大のテーマの達成度は現在40%といったところです。最初にテーマを掲げてから3年、確実に変わってきてはいますが、まだ私や部長が睨みをきかせているからなんとか武士になれているような状況で、気を抜いたら元に戻ってしまってもおかしくありません。

理想としては言われたからやるのではなく、自分たちで考えて行動するようになってほしいですよね。自分で考えられるようになるためには一人ひとりの「気づく」力を伸ばしていかなければならないと感じています。

職人気質でやってきた中小企業なので、よく世間で言われるような前年比何%アップを目指してもピンとこないんですね。目標は具体的な一歩に落とし込んで積み上げていくことが必要なんです。その次の一歩を決めるのはマネジメントの問題、つまり社長の仕事だと思っています。



今後の展望を教えてください。

日本の中小企業は尖った技術やノウハウを持ちながら、それを活かしきれていないところが数多くあります。大手企業に負けない強みがあっても、自社の良い部分を見つけられずに卑屈になってしまっていると思うんです。

そういった意識を変えるために、中小企業でも時間と知恵と少しのお金を使うことで、大手企業に負けない強みを発揮できることを示していきたいと思っています。一言で言えば、中小企業の見本となる会社にしていきたいということです。

数年前には9億円もあった負債を返済し、将来的には開発メーカーなのに銀行借り入れもゼロにする方向性で進んでいます。目標は中小企業ではまずありえない会社です。ただ、それだけでは中小企業の見本になるには物足りないため、今後は外部から評価していただくことも必要だと思っています。

これまでは表彰や認定などには一切興味がなかったのですが、中小企業の見本となる会社としてまずは社会にもっと横引シャッターの存在を知ってもらわなければならないと考え、積極的に取り組むようになってきました。

足立区の「ワークライフバランス推進認定企業」に選ばれたり、東京都の「がん患者の治療と仕事の両立への優良な取組を行う企業表彰」の中小企業部門で優良賞を受賞したりと、少しずつ露出が増えてきているところです。

他社と同じようなことをやっていっても面白くないと私は思っているので、横引シャッターらしい特色を出しつつ、中小企業のお手本となれるような会社になっていきたいと思っています。




<インタビュー情報>
株式会社横引シャッター
代表取締役 市川 慎次郎
会社ホームページ http://www.yokobiki-shutter.co.jp/

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