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100年続いた企業だからこそ、新しい展開を常に模索する!

有限会社山忠
山村 尚芳



創業から現在に至るまでの変遷について教えてください。

創業者は私の曾祖父、山村長三郎です。ある記録によると1919年に創業となってるのですが、震災と空襲で2度家が焼かれてしまっていて、はっきりとした資料が残っていません。設立当初からハンドバッグ一本を手縫いで作るということを事業としていたようです。2019年には、おかげさまで創業100年を迎えさせて頂く事になります。

創業当時は今現在OEMで受注しているようなブランドはなくて、職人さんが一本・一本手作りで売りに出していたと聞いています。例えば、プロレスラーの力道山さんがアメリカに遠征に行かれる時に、「山忠の親父さん作ってくれないか」といった注文を受けていたそうです。一本・一本手縫いですので、オーダーメイドに近い形だったのかなと思います。当時はまだまだミシンが高価で到底手の届く様なものではなかったですから、必然的に職人さんによる一本・一本手縫いという形だったのでしょうね。

創業者である曾祖父が力道山に選ばれた理由としては、当時の弊社は、多くのメディアから取材に来ていただけるほど、技術的にはかなり成熟したものがあったということが挙げられます。よく考えますと、国民的英雄である力道山に選ばれるというのは、なかなかすごいことですよね。

その後の時代では、さっきお話したミシンの普及が、弊社としての形態が大きく変わったきっかけだったと思います。それまで手縫い、手縫いという事で、一本・一本どうしても時間が掛かっていたのが、ミシンや皮を加工する機械が登場した事によって、本数をこなせる様になったという事でOEMが生まれました。私の祖父である二代目は、最初は手縫いでやっていたみたいなのですけれども、やっぱり機械の速さというか圧倒的な生産力には勝てないという事で、ミシンを活用するようになりました。

私の父が三代目になるのは、1985年辺りです。日本の高度成長時期でもあり物が一気に売れる時代でした。三代目の時代の流れが一番早かったのではないかと思います。仕事も山ほどありましたので、職人さんもたくさんいました。しかし、その後にバブルがはじけて日本自体が停滞していき、それまで育てていた 職人さん達に仕事がいかなくなってしまいました。売り場から、「この値段でやってくれ」というように値段を下げるよう要請がきます。すると、どうしても職人さんの技術を買い叩くことになります。切り詰めていかなきゃいけないところになってきてしまうのです。職人さんからすると、「こんなに売り場からの言うことばかり聞いていたら、仕事にならない」ということになります。生活がままならないからという理由で、次々に廃業されていってしまいました。さらに悪いことに、バブルがはじけてごちゃごちゃしている時に、一気に中国生産・韓国生産というのが広がりました。職人叩きに拍車をかける様な形になりましたね。職人さんが減っているので、現在ではいかに合理的にハンドバッグを作り上げるかというフェーズにいます。ですから、必然的にメーカーのOEMが事業の中心となっています。ありがたいことに、メイドインジャパンに拘ってらっしゃる多くのブランドから、仕事を受注させていただいております。


御社の強みについて、お聞かせください。

曽祖父の代からずっと伝わっている技術が何よりも強みであると思います。おかげさまでハンドバッグの会社を100年もやっていると面白い技術が生まれます。特許を取得している技術もあり、山忠だけにしか出来ない技というものがあるということが、まず大きな強みだと認識しています。

また、これは個人的な見解なのですが、ファッションの業界は、流行ったものがループし、一度廃れたものでもまた流行となる傾向があるように思えます。山忠が100年の間に培ってきたデザイン力、技術力が、時を経てまた流行りだすことがあったりするんですよ。そういう意味では、新しいものを生み出す際も、そのサイクルを意識してのデザインの発想・着想ができますし、ああ、この構造なら一度作ったことがある、なんて経験がすんなりと新しいデザインでも作ることができますね。つまりは、100年間生き続けてきたことが、強みでもあると思います。長くやってきているという部分と、そこに対しての技術の拘り、積み重ねというのが今の強みになっているのだと思います。


御社が現在抱えている課題はどこにありますか?

先ほどの強みの際に、技術が強みということを申し上げました。これは、言い換えると、職人が強みということになりますので、常に職人を育てるということを意識しなければなりません。しかし、皆さんご存知のとおり、昨今は少子高齢化が進んでいます。人口が減少すれば、ハンドバッグを買ってくださる方が減っていきます。そうすると、お金を稼げない事になり、若い職人を育てる事も出来ません。どこかで流れを食い止めなくてはいけないんですよね。その辺りを踏まえての人を育てるという事が課題ですね。これは弊社だけではなく、人材育成に時間を要するものづくり業界すべてにあてはまる本当に大きな課題だと思います。

そもそも、バブルがはじけた辺りから、職人さんになろうという方がだいぶ減ってしまっています。今でいう40代・50代ですね。本来ならば、今一番力を付けているはずだった年代の人たちがスパンと抜けちゃっているんですよ。これは本当に由々しき問題です。その下の30代の方が、この荒れてしまった物づくりの土壌で芽を出し始めてはいるのですが、直接指導をしてくださる方がいなかったりだとか、職人さんからの教え、ないしはご指導を賜わるにしても、上の世代が70代とかになっていたりするんです。ここもどうにかしていかなければ発展はありませんね。そのためには、若い職人さんたちが成長する機会をなんとか作ってあげる事が山忠のやるべき事だと思います。若い職人さんを育てる方法の一つとして今は、会社が持っている技術や特許を学んでもらうということがあります。着実にいい職人を育てていくことを意識していきたいと思います。


山村さまご自身のことと山忠に入社された経緯を教えてください。

子どもの頃から会社にはちょくちょく出入りして遊ばせてもらった事によって、人懐っこい性格になりましたね。親について回ってあちこちの工場の方々には可愛がっていただきました。そこにはパートさんがいたり、職人さんがいたり、社員さんがいたり、ずっと大人たちから遊んでもらっておりましたので、今のように一流の社会人の皆さまからの御懇意に賜われるのは、そういった環境で育ったものが助けとなり、また商売へと繋がっているのかもしれません。

また、私は長男なので、生まれた時から跡継ぎが出来たと可愛がってもらいました。私自身は、次期社長だということを、子どもの頃には意識をしていなかったのですが、思い返してみると、継ぐ・継がないという意識のもっと根底に当然四代目になるというDNAが、最初からあったのかなという感じはしますね。そういう意味では、環境的に育まれたところはあると思います。よく「レールが敷かれていて親父の後を継ぐのが嫌だ」みたいなドラマがありますよね。私も、思春期の頃には、父親に反発するための口実のひとつとして、そういう真似事を言ってみたりもしましたが、やっぱり会社を継ぐという意思が無意識のうちに芽生えていつしか最も大きい行動理念のひとつとなっておりましたね。

そして、22歳くらいのときでしょうか、私はファッション系の専門学校に通っていたのですが、父親の周りには優秀な職人さんや経営者の方々かたくさんおり、学校よりももっと実践に近いところで学びたいと思い、専門学校を中退して山忠に入社しました。それが私の入社までの経緯です。

入社してからは、経営者の観点・感覚でガンガン会社を回していこうと思っていました。ところが、入社してからいろいろと勉強をさせてもらうと、まず職人さんがいなかったり、売り場がなかったり、景気が悪かったりで、想像以上に大変でした。そこで、まず私自身がハンドバッグの勉強をちゃんと一からやり直してということが必要だろうと思い、今現在は職人兼・営業みたいな事をやっています。会社を適切に回しつつ、人を育てつつ、技術を残しつつということをやっていかなければなりません。日本の物づくり業界に来ているシワ寄せを一つ一つ片付けていくのが、私の世代のやり方、私の会社の経営の方針としてやるべき事だと思っています。


入社後、三代目であるお父様との関係はいかがでしたか?

私が入社した時には、二代目の祖父も生きてました。家に帰ってくるとどうしてもハンドバッグや会社の話になってしまうんです。仕事の話ばっかりですね。そうなると、仕事の延長線上が家庭の中にあり、猛烈にぶつかるんです。私もクソガキですから、生意気な事もかなり言いましたね(笑)。会社では社長と社員の関係が、家に帰ってくると父と子になります。すると、いち社会人として言ってはいけない様な一線を越えて言ってしまうということもあり、しょっちゅう喧嘩をしていましたね。そこで私は、度々家出をしていました(笑)。趣味でギターを弾くのですが、そのギターを持って日本全国のバーやホテルを転々とするような旅に出でていました。

一番大きい喧嘩は、父たちの世代で本来、次の世代を育てるために蓄えておくべきだった資産を全部海外生産に使ってしまったことについてですね。「そんなことをするから、日本の物づくりがめちゃくちゃになったんだ!」という事を、よく言っておりましたね。父たちの世代からの目線からすれば、日本の経済力が落ちてきて、資本が海外に移っていた時だったので、家族を守る為、会社を守る為にはいたしかたのない事だったと今では理解出来るんですけれどね。当時は、まったく理解出来ませんでした。むしろ私のその狭い視野が故、半ば当てつけみたいな事を言って、大喧嘩になっておりました。

この家出には、自分の頭を冷やす為という理由もありますが、もう一つに、ずっと山村家の中にいるのでは、住む世界、見える世界が小さくなってしまうので、そこを打破したい気持ちもありました。一度外に出て、勉強させてもらおうと思ったのがやっぱり一番大きいですかね。結果として、今となっては、父のやってきたことの凄さを実感し、それが良好な関係を築けたきっかけとなっていると思います。


三代目のお父様について、もう少し詳しくお聞かせください。

父は錦糸町で一番でかい暴走族のヘッドだった人なんです。これだけ聞くととんでもなく怖い人のイメージがあるでしょう?でも、一言で言うと、父は優しすぎる人と私は答えますね。面倒見がよくて、どんな困難からも逃げず、常と矢面になって道を作り続ける、そういう人間なので、父の周りには私にとって素晴らしい方がたくさんいます。私もこの業界に入って多くの方々とお付き合いをさせて頂いてるんですけれども、誰からも聞くのは「お前の親父には、本当に世話になった」という話ばかりです。「ウチが苦しい時にはずっと守ってくれた」ともおっしゃる方もいましたね。どこに行っても、「ありがとう、と伝えてくれ」とか、「お前も親父のように立派になれ」と言われました。私が父と何回も喧嘩した、家出をしたなんてことを言いますと、「お前はバカか」と多くの方からお叱りを賜る事になりましたね(笑)。それほど、父の存在は家の外では大きいものでしたし、それを理解できるようになるまではかなりの時間が必要でした。一番身近なところにいたからこそ、見えていなかったのでしょうね。ただ、こういうことを父の口から聞いたことがないんです。「俺はこういう風に活躍してきた、こういう事やってきた」ということを、いちいち口に出すタイプの人間ではないですからね。背中で語る、と言いましょうか。私があっちこっちで、ものづくりの業界の人間と付き合わせていただくと、自然と父のやってきた事、理念というものが耳に入ってくるんです。今はそれを一生懸命吸収させてもらっている最中です。

四代目として承継されることになりますが、そこへ向けた心構えについてお聞かせください。

四代目になることについて、実は明確な時期は決まっていないんです。まだまだ父が第一線にいられるほど力がありますからね。つまりは、失敗から学べるチャンスが私にはありますから。そういう意味では、まず来年の創業100年という節目で、何か一つ私が個人的にブランドを立ち上げて社会勉強をさせてもらえたらいいなというのは思っております。いつかはわかりませんが、父がもうダメだとなった時に会社を一本化して、私が正式に会社を継ぐといった形を取れれば最高ですね。

最近色々なところで、後継者として四代目としての覚悟や心構えを聞かれることがあります。私の中では覚悟・意識は固まっているのですが、それが果たして人様に言えるほど立派なものになっているかどうかは定かではありません。まだまだ実力も実績もありませんから。ただ、私の目指すべき会社の在り方にはこだわりはあります。インターネットが普及した昨今、売り場がかなり自由化されていますよね。ですから、曾祖父がやっていた様な、ハンドバッグを心から愛してくださる方々のために、これなら絶対に満足していただける、そんな一本を心をこめて作って、それを直接お客様に売ってという様な形が今後の会社のあるべき姿だと考えています。間に誰かを介在させるのではなくて、いまだかつてないほどの透明感のある商売の仕方が出来たらいいなと考えています。ある意味、原点回帰といえますね。そこにはこだわりたいです。

いくらハンドバッグを大量に作ったところで、売れなかったら意味がないんです。また、お金惜しさに、この値段でやってくれ、なんて売り場の意見を鵜呑みにしたら、また職人さんを守れなくなり、お客様が満足のいくようなバッグが作れなくなってしまいます。それはもはや日本の物づくりも終わりだと思います。そこは今までの父のやり方とは線を引きをします。景気も違いますし、売り方も変わってきていますからね。個人個人の価値観を尊重し、そこから学んだものを職人育成への栄養として蓄え、かつ自分でも何か発信して、お客様との繋がりがダイレクトになる様なビジネスを展開していきたいですね。



四代目として、変えるべきものと変えてはいけないものについて教えてください。

変えるべきものから言いますと、社外との関係ですね。物づくり・ハンドバッグの業界というのは、長く続くとどうしても悪しき縦社会が構築されてしまいます。言うべき事が言えなくなるということになります。私は山忠の四代目としてあっちこっち色々な方々から様々なビジネスの機会にお誘いしていただいて、勉強させて頂くのですが、その際に、本来私にもっとズバッというべきところをどうしても遠慮がちになってしまったり、山忠さんの息子だからとか言われてしまったりということがあります。古い縦社会の文化っていうものがずっと残っていると、若い子たちが育つ機会、すなわち発信の機会がなくなってきますので、そういうところは変えないといけませんね。

残すべきところとしては、やはり技術ですね。技術と言っても、ただの手先の技術だけではありません。職人さんたちは、曾祖父、祖父から単なる技術を継承しただけではありません。その一本・一本に魂というか、理念があります。私共が作ったバッグを使用してくださる方々の笑顔を常に想像し、ああ、このバッグと出会えて良かったな、というユーザーの満足のため、そのクラフトマンシップをこそが肝要であり、そういうものが全部詰まっての技術の継承なんです。そういうところは変えずに決して忘れることなく残していきたいですね。


今後の展望を教えてください。

まずは、家族、身近なところの生活をしっかりと守るために、ハンドバッグを愛してくださる方々に満足していただける品物を作ることが私の目標になります。それによって、若い職人さんたちが育ったり、今まで意地を通してくださった職人さんたちに恩返しができる土台が作れると思います。そこから、日本の物づくりというものが盛り上がっていってくれるのではと考えています。最終的には、私に子供が出来た時に、次の世代の方たちが、「あっ、物づくりっていいな」とか、「親父の会社継ぎてーな」なんてことを思ってもらえる様なそういう環境作りはしていきたいなと思っています。それが私の人生をかけてのライフワークになるのかなとは思います。

脈々と続いている技術や物づくりそのものをなくさずに、そこの価値を高めていくということです。その価値の高め方は、これまでの時代に合わせたOEMだけでなく、自分たちのブランドを持って透明感のある売り場を作る事で叶えたいです。

また、今まで山村家はハンドバッグを皆さんに買って頂いて、物づくりに携わらせて頂いて、この地域でずっと過ごせる事が出来た一族です。その物づくりを介して、皆さんへ誠心誠意をこめたバッグを作ることによって、恩返しが出来たらいいなという気持ちがあります。この山忠という会社で、職人を目指してくださる様な方がいるのであれば、その方たちに明るい豊かな生活を送っていただけるような会社を作っていきたいですね。物づくりを目指す人にしっかりと力をつけさせてあげたいです。それが日本の物づくりの最盛へと繋がるわけですから。

より具体的に申しますと、学校を卒業した若い子たちが夢を持って、この業界に入ってこられる場を作りたいです。自分でデザインをして、自分の作りたいものを作ってということを夢見て学校に行き卒業していますが、実際に職人さんがやっている仕事内容と学生が夢を見ている事とは必ずしもマッチングするとは限りません。特にOEMで一気に大量の鞄を作ってそれを仕上げてということになりますと、流れ作業で同じ事をずっと繰り返すというシチュエーションもあります。それでは学生からしたら魅力はありませんよね。やはり、新たな商売の仕方として、山忠の中にいると、独自のブランドでカスタマイズした商品が作れるという、そういう土台を作りたいですね。

結論としては、100年続いてきた会社だからこそ、昔のやり方を通さなきゃいけないではなくて、100年続いてきた会社だからこそ新しいやり方を常に模索しなければならないということです。それはこれからの未来では、より強く意識していきたいです。





<インタビュー情報>
有限会社山忠
山村 尚芳

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