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絶望の中で見つけた真理の一片。その思いを胸に、社員と経営と向き合う。


株式会社昭和製作所
代表取締役社長 舟久保 利和



はじめに、昭和製作所が何をしている会社なのか、教えてください。

「材料試験片」と「超音波探傷用試験片」というものを製作している会社です。両方とも馴染みのない言葉だと思うのですが、売上の半分以上を占める材料試験片は工業材料の強度や硬度などの性質を知るためにする試験に使用される小片のことで、新しい材料が生まれる過程では欠かせない存在なんです。例えば、自動車のエンジン。始終熱と振動にさらされる場所であるため、材料の疲労強度や耐熱性が重要です。どれくらい耐えられるのか、製品開発の過程で入念な試験が行なわれます。そこで使われるのが材料試験片なんです。いわば、産業の基盤の、そのまた基盤を支えるものづくりの"最初の一滴"。ここに70年近く、親子三代にわたりこだわってきた会社です。

私たちの仕事は、研究開発中の材料をお預かりしてこの試験片を作ってお客様にお戻しするというもので、傍目から見たらとてもシンプルに映る仕事かもしれません。しかし、そうでもないんです。材料に使用される金属は、加工の過程で熱や力が加わることで強度などの特性が変わってしまうこともあります。刀剣をつくる刀鍛冶の仕事を思い浮かべてもらえると分かりやすいかもしれません。しかし、私たちの仕事は余計な熱や力を一切加えてはダメなんです。材料をお預かりした状態のままの特性に影響させることなく製造しなければ、試験結果が全く違ったものになってしまいます。とにかく余分な力を加えず、余分な熱も入れずに、いかにそのままの形で仕上げていくか。それにより精度の高い試験が可能になり、トップの自動車メーカーや研究機関から信頼をいただけるまでになりました。




1952年の設立から、ずっと材料試験片一筋だったのですか?

材料試験片は弊社の代表製品であって、それが全てではなく、「研究開発のお手伝い全般」といった方が正確かもしれません。私の祖父である舟久保利作が創業者なのですが、元々本人が研究開発者だったこともあり、その方々のお助けに回るということで創業したようです。最初は祖父が勤めていた日本特殊鋼の下請けのような位置づけだったのですが、戦後の混乱から高度成長の波に乗り、その中で技術を身につけることで、精度の高い試験片を作り出せたんですね。これが他の企業や研究機関からも好評で、たくさんの引き合いが相次ぎ、事業規模を拡大させていったそうです。

大きな転換期は、大手重電メーカーから仕事の依頼を受けたところからのようです。最初は耐熱鋼の試験片作りで悩んでいたところ、日特に相談し弊社を紹介いただいたようです。その後、「タービン用止めピン」の製作で高い評価をいただきました。大きな力が加わる原動機の重要な部分です。当社が示した製造方法は顧客社内で正式採用され、50年以上が経過した今も継続されています。その後、大手自動車メーカーの研究機関からも大きな信頼をいただきまして、以来ずっと、お手伝いをさせていただいています。

祖父はもともと「研究者たちの手伝いになる仕事がしたい」という思いがあったようで、材料試験片をメインとしていますが、機械加工を中心に熱処理や表面処理などの異業種企業とも連携を取り、ある種ものづくりの何でも屋として業務を行ってきました。祖父が作り、父が育て、三代目である僕が現在引き継いでいますが、基本的な事業内容とその精神は変わっていません。


創業者の舟久保 利作氏


舟久保社長の子ども時代について教えてください。

子どもの頃はずっと野球をやっていましたね。高校まで野球づくしでした。その後、やりたいことが見つからずに現役では大学に行かず、興味のあったスポーツトレーナーの道に進むべく、浪人することになりまして、猛勉強をしました。高校時代は野球に全てをかけていたので、全くと言っていいほど勉強はしなかったくせに、入りたい大学のレベルを一番高いところにもっていったので必死でした。1日16時間勉強することもありました。そして、根をつめすぎたんでしょうね。いざ受験シーズンに入り、滑り止めで受けていた大学でほぼほぼ完ぺきに進んでいた中、最後に受けた数学の試験の最初の問題が解けなかった焦りから、急に1年間がんばった分のプレッシャーに襲われ、テスト中にパニック障害になって、その場で気を失いました。その後、人前に出ることができなくなってしまい、最終的にうつ病になってしまいました。あの頃は本当につらかったです。

母にも心配かけて、近くの市民病院の心療内科に行きました。そこで先生に事情を説明したら、「スポーツ健康科学部受けたのに、健康じゃなくなっちゃったんですね」って言われまして。なんだコイツと。(笑)こっちは生きるか死ぬかの瀬戸際で、原付に乗って途中で3回吐いてまでやってきたのに、何言いやがるんだと。あの医者の言うことは信用できないと思い、処方してもらった薬も全部捨てて、自力のリハビリだけで治すと決めました。

でも本当に地獄だったのはそこからですね。朝、ベッドから起き上がれない。瞼を開けることから億劫で、なんとか起きて、フラフラと歩く。電車も怖い。だから各駅停車に乗っていつでも降りられるようにして、少しずつ本来の自分を取り戻そうとしました。でも、なかなか上手くいかないんですよ。なんでこうなっちゃったんだろう。こんなに風になってまで生きている意味ってなんだろう。何度も何度も考えても答えは出てきませんでした。でもヘンな話なのですが、今振り返るととてもいい経験をしたと思っています。生きるとか死ぬとかを極限状態で考えることで、死ぬことなんていつでもできるから一先ず生きてみよう、と思えたり、生きている価値さえないと思っていた自分にやるべき仕事が生まれたことで喜びを感じられたり、せっかく限られた人生を生きるのなら周りの人には笑顔でいてほしいとか、そういう風に考えられるようになりました。

結局、闘病生活をし2浪した後に順天堂大学に入学。4年間学びまして、卒業後、アメリカに2年間留学させてもらいました。留学はこれから本気で日本で生きていくからこそ、日本を外から見てみたいという思いがずっとあったんです。



そんな舟久保社長が「会社を継ぐ」ことを意識したのは、いつからですか?

正直なところ、子どもの頃は全く考えていませんでした。父からも継いでほしいと言われたことはありませんでしたし。だからこそ、家業と関係がないスポーツ系の進路を進んだ訳です。心境の変化があったのは大学2年生の時ですね。野球部でトレーナーをして勉強をしていく中で「この道ではないんじゃないか」と漠然と違和感を覚えるようになりました。そして、「生涯かけて一生懸命になれる仕事ってなんだろう?」と自問する中で、舟久保利和にしかできない仕事って何かと考えたとき、舟久保家に生まれたこと、50年以上続いている家業があること、祖父の孫として、父の子として生まれたこと、こういった縁というか運命みたいなものと自分がつながっているのを感じました。経営者というのは会社の全責任を負う仕事ですが、それって誰にでもできることじゃない。そこには自分がやる意味があるのでは?と考えるようになったんです。

それで、父に土下座をしてやらせて欲しいということを伝えました。はっきり覚えてはいませんが、父は喜んでくれたように見えました。その後、本来はすぐに大学を中退して、バイトをしてお金をためて留学し、日本に帰国したところで他の会社で修業をして社会人経験を積むつもりだったんですよ。ただ、死に損なって入った大学なので、母親から「大学だけは出てほしい」と言われたので、大事な岐路は全て自分の意思を尊重してきてもらいましたが、さすがにそれには従いまして、中退せずに卒業し、親に借金をして、卒業後はすぐに留学をしました。大好きな日本を客観的に見る経験をしたり、国内ではなく海外に飛び込んで英語をしっかり身につけたりしたいという思いから留学をしました。帰国後は一般企業で働くつもりだったのですが、「歳も歳だし、外に行っても時間かかるだけ。経営を教えてくれるわけじゃない」と、当時、某大手自動車会社の営業の神と言われた方が何故か父の縁から弊社に入ってくれたのですが、その方に諭されまして、それで昭和製作所に入社することを決めました。2006年10月のことですね。


​​​​​​​舟久保社長は『下町ボブスレーネットワークプロジェクト推進委員会』の元委員長(2代目)


入社してから5年後の事業継承、そのキッカケは何でしたか?

キッカケは2011年の東日本大震災です。会社がピンチになったんですよ。一時は7億円あった売上が2億以上落ち込み赤字になり、なんとかしないといけない状況だったんです。5年間働いて分かってきたことなのですが、だんだん「今の経営を続けていても会社は良くならないだろうな」という思いがありました。

父に能力では全然及びませんが、年齢は若い分、今の時代の空気みたいのものは自分の方が良く分かる。そういう確信みたいなものがあったんです。世界はものすごい勢いで変わっているので、昭和製作所も時代に合わせた変化が必要なんじゃないかと思っていました。実際、「どうせ苦労するんだから早くやらせてくれ」っていうのもあったんですけどね(笑)。

父と意見の対立も当然ありました。僕も言いたいことを言いましたよ。それはもちろんお互いが憎み合ってしたことではなくて、会社や社員のことを考えた上での意見のぶつかり合いでした。「全権渡すか、クビを切るかどっちかにしてくれ」とも言いました。まあ、若い分勢いもありましたね(笑)その結果、父は全権を僕に任せてくれることになました。「お前がそこまで言うんだったらやってみろ」と。どれだけ喧嘩をしても、父は僕のことをとても信用してくれていて、外でも「俺の次はこいつだ」と言ってくれて。本当に有り難いなと思っています。



お父様から会社を託されてみて、実際のところいかがでしたか?

感慨深さなんて感じる暇がないほど、やるべきことが山積みでしたね(笑)。昔はまかり通っていたけど今の時代には合わない、そんな仕組みや状況が2011年の昭和製作所にはたくさんあったんです。一方で、僕は社員から経営者として認められてないじゃないですか。なったばっかりですから。だから見定められているという緊張感をずっと持っていましたね。今も持っていますけど。

当時の社内は、とんでもなくカオスな状態で、苛立ちを抑えきれずに壁に怒りをぶつける社員とかいたんですよ。でもお咎めなし。悪い意味で放任状態でした。良いことをしても褒められないし、悪いことをしても叱られない。声が大きい人が勝つみたいな。「5時で帰るのが俺の仕事の流儀だ」なんて言っていると「あ、そうなんですね」とまかり通ってしまう。会社が社員に対してきちんと向き合えていない、きちんと愛情を注いでいないことを僕は問題視しました。

だから、社長就任から大切にしたことの一つは社員とのコミュニケーションです。とにかく時間を作って、すべての社員と話す。腹を割って話す。栃木に工場があるのですが、そこにも週1回ペースで必ず通いました。すると社員から現状への不満がどんどん出てくるわけです。耳が痛いことも多くありました。でも、それらすべてと向き合おうと思ったんです。

でも、社員とちゃんと向き合えたからこそ見えてくることもあります。例えば、先ほど話した壁に怒りをぶつける社員。問題社員という報告を受けていましたし、実際そうでした。でも、直接話してみると、彼はすごく真面目なんです。他の誰より仕事をする。それで他の人に注意をしようとするんですが、言い方が喧嘩腰だから当然受け入れられず孤立してしまっていたんです。仕事が終わった後も、タイムカード切って「ここからは自主的な勉強ですから」と新しく導入したパソコンの勉強をしている。こういう人材を見逃しちゃいけないなと思いました。彼は今、製造部長を任せていて、信頼できる幹部の1人です。


最後になりますが、今後の展望についてお聞かせください。

現在、お客様から評価をいただいている材料試験片や超音波探傷用試験片での高い精度のものづくりを骨子として、これまでの技術を応用できるビジネスの開拓、そしてそんな事業を支えていける社員の採用と育成、大きくはこんなところですね。

事業を成長させる可能性の1つは、今は材料試験片という部分だけをお手伝いしているのですが、前工程や後工程に関わっていくこともできるのでは?と考えています。ただ、その場合は新たな技術を身につけたり、他社や専門機関との協力体制が必要になってきたりするでしょう。かなり先の未来を見れば、ものづくりの上流にまでのぼって、最終的に自分たちのものづくりをするのもいいですよね。

大量生産、大量消費、大量廃棄、という時代はもう終わっていますよね。日本のものづくりは、今、大きな岐路に立っていると思うんですね。何でもいっぱい作って儲けるではなくて、本当に困っている人の思いをピンポイントで叶える、そんなものづくりができれば、本当にありがたく思っていただけるだろうし、嬉しいですよね。ものって心が入るものじゃないですか。思いが伝わるものじゃないですか。一生大事にされる、そんなものづくりが具現化できたらという思いがありますね。

僕は、自力で勉強するのはもちろんですが、人の力借りることも大事だと思うんです。幹部の力を借りて、協力会社の力を借りることで、自分一人ではできないことを成し遂げられるというのは素晴らしいことです。時代の流れは早いですから、無いものはよそから借りる。そうやって、今できることを増やしていきたいですね。今回、M&Aをするのですが、そこにはそんな思いがありました。

でも一番は、社員みんなが笑顔で働ける会社にすることです。みんながイキイキと「自分がこの会社を支えているんだ」と思える仕組みやチャンスがある組織。それが理想です。僕は優秀な人間じゃないので、自分でできることは少ないんです。だから、社員の皆が活躍できる環境を全力で作り、力を発揮してもらう。そして、全ての責任は私が取る。それが経営者の仕事なんじゃないかって最近は考えています。会社は僕の私物じゃない。みんなのものです。だから社員みんなが「自分がいたからこの会社の今がある」って言えるような会社にしていきたいですね。




<インタビュー情報>

株式会社昭和製作所
代表取締役社長 舟久保 利和
会社ホームページ http://www.showa-ss.jp/index.html

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