創る・継なぐ、繋げる。それは新しいものづくりと、創業の思いと技術を未来へ。


松栄産業株式会社
代表取締役 宮田 紀之



はじめに、松栄産業株式会社について教えてください。

松栄産業株式会社は、半導体製造装置に欠かせない「ウェット系」と呼ばれる試薬・溶剤等の給排水に関する装置や配管の設計、製造、保守を手がけている会社です。半導体や電子部品、基板などは、製造プロセスで何度も洗浄やエッチングという表面加工が行われています。そこでは純水や複数の化学溶剤が用いられるため、ウェット系の給排水機構には耐腐食性、耐薬品性が高い塩ビやフッ素樹脂による筐体や専用配管といった専門性の高いものが欠かせません。当社は塩ビなどの樹脂加工に関する独自の技術やノウハウを活用して、半導体製造プロセスにおけるインフラソリューションを提供しています。

私の妻の父である松尾正が昭和48年に創業いたしました。創業の経緯としては、後に常務取締役営業本部長となる義父が当時務めていた東横化学(株)にNECから半導体製造に必要な洗浄機や薬液供給装置の供給を求められたことから、それを手がける協力工場として義父が個人で会社を立ち上げたことに始まります。

そのような経緯から、当社は立ち上げ当初より東横化学様の仕事だけやっていれば十分儲かっていたそうで他の仕事をやる必要なかったようです。しかし、その後半導体業界ではNECをはじめとする国内半導体デバイスメーカの事業撤退や、韓国・台湾をはじめとする海外メーカの台頭などの業界再編により大きく環境が変化しました。

これにより当社も東横化学様一社依存だけでは今後の経営が危ぶまれることから、新たにお客様の獲得や事業軸を増やそうと現在取り組んでいるところです。



宮田社長はどのような子ども時代を過ごされてきたのですか?

どちらかというと引っ込み思案でしたね。人の輪に入るのがあまり得意ではありませんでした。幼稚園ぐらいまで、家の近所に同学年の子供たちがいなかったので、一人遊びをするとか母親と遊んでもらうことが多くて。だから幼稚園とか小学校へ行っても、なかなか人の輪に入るのが得意ではなかったかもしれません。

ターニングポイントは、中学生という多感な時期に、部活動仲間を中心に仲間外れにされたことですね。信じていた友だち、仲間に裏切られたという思いがすごく大きくて、あれが僕を変えるキッカケになりました。その後、部活動仲間とは地区大会の優勝を機に表向きは元の関係に戻るのですが、一度裏切られた仲間を信じることが出来ず心底楽しくはなかったですし、そんな地元から離れたくて密かに学区外の高校に行く決意を固めました。

高校は僕が小学5年生の時に甲子園に出場した実績のある公立高校に進みました。小学校からずっと野球をやっていて、漠然とその学校に憧れがあったのですが、中学の時その公立高校の監督による強化合宿があり、選抜メンバーとして参加したことから、どうせ野球を続けるならこの監督の下で野球をやりたい。だからその学校を行こうと思い一般入試で夢を叶えました。

ただ、念願叶って入部したのはいいのですが、高校野球は半端なくて、中学なんて全く比にならなかったです。伝統的に100人入部しても夏には50名以下、1年経つ頃には20人ぐらいしか残らないといった状況です。僕自身も当然何度も挫折しそうになりましたが、ここで苦楽を共にした仲間の存在は大きかったです。高校野球を通じて体力も筋力も根性も付きましたし性格も大きく変わりましたね。この3年間がその後の人生にも大きく関わっていると思います。


松栄産業に入られる前は、どんな仕事をされていたのですか?

実は勉強も出来ないくせに、部活の先輩の話から証券マンとかに憧れたりしていました。そこで某私立大学進学を考えるのですが、当時は両親の援助が全く得られなくて已む無く断念。でも他に興味を引く職業もなくて、就職活動をまったくしてなかったのでピンチに陥ってしまいます。しかし、進路指導部長がたまたま野球部の顧問だった為、便宜を図ってくれてある会社を紹介してくれたんです。それが現在の株式会社ミツトヨ(当時は株式会社三豊製作所)でした。一応、歴史ある商業高校でしたので、簿記とそろばんの他、情報処理の資格は取得していましたので「経理職で募集があるから行かないか」ということで。

ところが、実際には経理としては一度も勤務することなく、研修期間ということで在籍した生産管理部門にそのまま配属され、それから4年程経ったときに本社に移籍することになりました。採用が事業所でしたので本社への移籍は珍しいことなのですが、たぶん、社内でいろいろな思惑があったのでしょう。ともあれ田町にある本社へ移籍することになりました。私は本社管理部という部署に配属となりますが、ここで同じフロアで海外営業本部に所属していた妻(松栄産業の創業者件先代社長の娘)と知り合うことになります。その頃は1990年代、田町にはジュリアナ東京があり、時代はバブル絶頂期。そこで私は5年間ほどぶっ飛んだ時代を知ることになります(笑)。

その後1995年に妻と結婚、挙式から一週間もしないうちに妻の元上司であった当時の社長から社長室に呼ばれました。勉強はおろか語学など全く出来ない私にドイツに行けという辞令宣告でした。そして2年間ドイツ(ドイツ語)で勤務した後、今度はオランダ(英語)へ行けという辞令でした。結局トータル10年にわたって欧州に勤務することになり2005年に帰国致しましたが、振り返ってみるとこの間にお金では買えない多くの貴重な経験を積ませていただくことが出来ました。そして2015年、欧州在籍中の2000年代前半に欧州統括会社構想プロジェクトメンバーだった私は、晴れて欧州統括会社の統括マネージャーとして再赴任をいたしましたが、欧州着任して1年が経った頃、義父の余命宣告の連絡を受けたのです。



どのようにして、義父様から会社を引き継ごうと決意されたのですか?

欧州再赴任が決まった年は、丁度長女が大学受験でしたので必然的に単身赴任となりました。お陰様で娘の進学も決まり一見順風満帆のように思われましたが、私が赴任して間も無く義父が検査入院先で脳梗塞を発症しました。発症後約半年頃までは義父もリハビリを通して復帰を目指していましたが、残念ながら過去と現在の記憶の整理がつかず経営判断は困難と思われる中、体力も気力も日に日に衰退してしまい一年後には完全要介護の状態となってしまいました。一方、妻も日中は自宅で学研教室を開講する傍ら、高齢の義母に変わって義父の介護にあたる中、娘に続いて高校受験を控えた息子の進路で心労が重なり、私に「すぐにでも帰ってきて欲しい」という訴えが日に日に増えていきました。とはいえ、僕も現地で大きなプロジェクト背負っていましたし、赴任してまだ一年ほどでしたので、仕事の見通しは全く立たず身動きが取れませんでした。

一方、松栄産業においては、長引く社長不在の影響により会社運営は益々難しい局面を迎えていたことから、義父に代わって義姉と一部の従業員上層部を中心に会社を解散する方向で話が進められていました。

しかし、創業者である義父としては、最後まで社員と社員の家族を守りたいという思いでしたし、リーマンショック後に一時経営難はあったものの45年以上続いた会社でしたので、銀行も資金援助をしてくれるという事でしたので、あとは事業承継する人をどうするかだけという状況でした。しかし、継ぐ者がいません。義父は会うたびにどんどん細くなっていきます。僕も義父との残された時間はあまり無いものと思い、可能な限り時間を見つけては一時帰国をしました。義父はうわ言のように、「松栄はつぶしたらいかん」「絶対つぶしちゃダメだよ」と、そればかりをくり返していました。また、会社を解散する場合、従業員への退職金の支払いなど計算をすると、妻の実家を売りに出さなければならないことも分かってきました。唯一すべてを守れる方法、それが松栄産業を続けることだったんですね。

そんな時、義父がまだ健全な頃に「ノリ(紀之)が会社をやってくれたらいい」と周囲の人達に漏らしていたという話が舞い込んできたんです。僕にはそんな素振りも全く見せなかったんですけどね。 決局、解散手続きを進めていた義姉も「ノリが継いでくれるなら応援する」ということになり、そのような思いに応えるカタチで、私は事業継承を決意しました。その後、前職関係者の理解と協力のもと約半年で何とかプロジェクトのほうを一段落させて2017年6月末に帰国、有給休暇を利用して入社準備を進め7月末で前職を退職。8月1日から松栄産業を引き継ぐことになりました。私が引き継ぐことを伝えると義父は喜んでくれたようです。「これで安心だ」って。それから約1ヵ月後、妻が余命宣告を受けたと私に泣いて電話をしてきた日の丁度一年後の9月7日のことでしたね、亡くなられたのは。



事業継承してみての感想は、いかがですか?

正直な感想を言うと、「来なきゃよかった」でした。というのも、資金繰りが全然わからないんですよ。受注の見込みもわからない。情報がまったく何もまとまってない。どうやってこの会社が運営されていたのか分からない状態だったんですね。いろいろとメスを入れて変えなければならないことが多いのは確実でした。

しかし、新参者が急にいろいろなことを始めてしまうと、従業員から拒否反応が出る可能性があると知り合いの会計税理士の先生にも言われていたので。毎日現場に行ってモノづくり教えてもらうという生活を半年くらい続けました。そんな日々の中で感じたのが、案外何でも出来ちゃう会社なんだなぁ、この会社がやっていることの意義とその価値を対外的にきちんとアピールしたいという想いでした。

そこで、半年後の2018年2月に現在のホームページをオープンさせて、3月に新しくこの事務所を作りました。4月にエン・ジャパンと取引をして求人広告掲載をスタート。同時期に、サーバーとかシステムまわりを入れ替えました。とにかく会社としてきちんまわる仕組みを早急に作らなければならないと思って、怒涛の展開で手を付けていった感じですね。社員からは「ついて行くのにやっとで息切れしています」って言われるし、反発を少なからず買っていることも知っています。それでもやらないわけにはいきませんでした。それには理由があるからです。


最後に、宮田社長が大切にされていることを教えてください。

私の思いは、義父の思いを実現することに尽きます。「この会社が続けられるように」、ただそれだけです。とにかく何もしない会社は大小関わらずつぶれます。だから社員たちの前で公言しました。

「私が社長を辞める時この会社はつぶれます。会社がつぶれる時、あなた方全員問答無用で解雇になります」と。「でも、そんなことをしたくて、この会社に来たわけじゃない。だからやれることは何でもやるつもりです。だから、私が社長を辞める時は、この中の誰かが社長になってください。そうすれば、この会社はずっと続きます。そういう会社にしたいんです」って伝えました。これは私の本心ですね。

だから世襲など全く考えていませんし、誰が社長を継いでくれてもいいと思っています。その為にも、部課長さんには私の思いを伝え、一緒の思いでこの会社を育てていく、そういう意思疎通ができないといけないと思っています。その実現のために、会議体や経営スタイルの基礎を今年中に作りたかったのですが、残念ながらできませんでした。なので、もう1年やり直し、仕切り直して、今度は部課長をもっと巻き込んで、単なるトップダウンではなく、会社全員が一緒になって、その基礎を築いていこうと思っています。まずはそこからですね。

どんな優れたシステムを持ち込んでも、うまく定着しなければ意味がありません。腹落ちしないものって定着しないじゃないですか、だからいつも言うのですが、経営者は最終的に決める役です。決めるんですけども、社員には「決まったからやる」ではなく、必ず「なんでやるのか」を伝えてほしいと。目的や意義をきちんと理解した上で、行動してほしいと思っています。

現状では、経営会議に参加している者に伝えたことが配下の従業員にきちんと伝わっていないことが多いです。要するに、聞いた者がきちんと理解して咀嚼できていないことが分かりました。私もやり方を間違えたなと反省しています。少なくとも今の会社組織では少し早すぎましたね。やり方を変えて再チャレンジしていきます。自分で考えて上に意見を発信していける幹部にふさわしい人材の育成が、当社における目下の課題ですね。




<インタビュー情報>

松栄産業株式会社
代表取締役 宮田 紀之
会社ホームページ https://www.shoei-industry.co.jp/

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