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お客様のあらゆるお困りごとを解決し、八王子を日本一ワクワクできる町にする

株式会社 日商平野
代表取締役 平野 雅之



創業から現在に至るまでの変遷について教えてください。

法人としての設立は1962年ですが、八王子の地で商いを営むようになってから100年以上の歴史があり、私で五代目になります。先代の父から聞かされた話では、初代が林業、二代目が染物屋、そして三代目がお正月の飾りなどを扱う竹屋をやっていたようです。

四代目となる父の代には、プロパンガスの販売やウォーターサーバー「アクアクララ」の販売・レンタル、不動産業などを始め事業を拡大。父は八王子の街づくりにも尽力した人でした。元々は田舎で何もなかったこの地域に銀行やホームセンターを誘致したり、地元の病院の事業拡大に携わっていたりしたこともあります。

私が常務取締役の時に現在の主力事業である通信事業を始めました。その後、五代目として代表に就任してからはセミナー事業や「クリアスイ」という除菌消臭水を販売する事業も始め、現在は健康食品「黒にんにく」の販売に至るまで幅広く販売を扱っております。
その他にも弊社お客さまの営業を代行しております。

日商平野は業種・業態に固執することなく、お客様のお役に立つために時代の流れに合わせて事業内容を柔軟に変化させてきているのです。


御社の強みを教えてください。

強みは2つあります。1つ目は、八王子市内で困った方のよろず屋的存在になれたこと。私は社長に就任した時から「八王子で困ったら平野さん」をキャッチコピーにしたいと強く思っており、その状況が作れてきたのではと感じています。

私の周りの方は「平野さんってどんな人?」と聞かれると、「何をやっているのか分からないんです。でも、皆さん困ると平野さんに相談しています」と言って頂ける様になりました。本当にありがたいですね。

2つ目は、八王子以外の方に「八王子=平野」というブランディングが出来ていること。私は県外の方とお会いする時に、八王子と平野がイコールになるような自己紹介しかしませんでした。「八王子=平野」のイメージが確立できてきたことで、今ではFacebookで繫がった全く面識のない方から、八王子のことだから平野さんにと仕事の相談を受けることもあります。

五代に亘って八王子で商売をさせていただいているため、八王子という地域と、目の前のお客様が困っていることに対して何ができるかということにはこだわりを持っているのです。横の繋がりを大切にしていくことでお客様を紹介していただくこともできますし、どの分野でもいいので地域で№1を目指す地域戦略は徹底しています。



平野社長はどのような幼少期を過ごされてきたのでしょうか?

幼少期のエピソードとして思い出すのは3歳の時にお店の真似事をしていたことです。3歳児ですから当然「100-50」という引き算はできません。でも「100円持っていって50円のアイス買いました。おつりいくらですか?」と聞かれると「50円」と答えられていたのです。

両親の会話は常に商売の話ばかりで「困っている方のために仕事をして、その対価としてお金をいただけているんだよ」と聞かされて育ってきたので、無意識のうちに商人のDNAが備わっていたのだと思います。

子どもの頃から家業を継ぐことを意識していたわけではないのですが、「おもちゃが好きだからおもちゃ屋さんになる。アイスが好きだからアイスクリーム屋さんになる」というように、将来の夢は全て商売人になることでした。育ってきた環境から、経営者になる以外の選択肢はなかったように思います。

また、両親が共働きだったので近所のおじいちゃんおばあちゃんに育ててもらっていたのですが、その時の経験も大きかったですね。小さい頃に「地域で育ててもらった」という思いがあることも、八王子という地域に対してのこだわりをより一層強くしているのかもしれません。



日商平野に入社されるまでの経緯を教えてください。

大学卒業後は、親から「外の釜の飯を食って来い」と言われていたので、就職活動をして当社と一切取引関係のない会社に就職しました。将来的に後を継ぐことが前提ならば家業と関係のある企業に丁稚奉公に行くのが一般的だと思うのですが、外で勉強させてもらうからには厳しい環境に身を置かなければ意味がないと思い、家業とは全く関係のない企業を就職先に選んだのです。

大学在学中に世界一周旅行をするために1年間休学しており、同期は1年先に社会人になっていたので、就職先は1年間の遅れをすぐに取り戻せるよう実力主義の会社にしようと心に決めていましたね。ルートセールスではなく新規開拓の営業マンとして成果に応じて歩合がもらえる企業に行きたいと思い、ベンチャー系の大手通信会社に就職しました。

その通信会社では3年間ほどお世話になったのですが、入社してから2年間指導していただいた上司は本当に素晴らしい方でした。私を営業マンとして育ててくれた恩師です。その方にはいまだに頭が上がりません。

入社した当初から3年程度で家業に戻ることは決めていました。営業力を鍛えるという観点から3年もあれば十分だと考えていたからです。3年目に恩師でもある上司の下を離れることになったことがきっかけとなり家業を継ぐ決意をし、2004年に日商平野に入社することとなりました。



五代目社長に就任されたきっかけは何だったのでしょう。

2004年に日商平野に入社をしてから、前会社の代理店として通信機器販売の事業を手がけるようになりました。全国の代理店営業コンテストで総合部門を含め6部門で1位を受賞したこともあります。現在は通信事業がメインの事業となっており、家業と全く関係のない会社で経験してきたことが今に活きています。

五代目として代表に就任したのは2008年。当時売上げの9割近くを占めていたプロパンガス販売事業を、M&Aで事業譲渡したタイミングで父と代表を交代することとなりました。

主力事業を手放したことで売上規模や社員数などは大幅に下がりましたが、会社の外でサラリーマンとして働いている兄の「価値があるうちに売却した方がいい」という発言が決め手になり事業を手放すことを決めたのです。

日商平野で働いていた父と母、そして私の3人は、主力事業を手放すことに当初は大反対でした。当事者だった我々は事業への思い入れがあり視野が狭くなっていたのでしょう。

結果として兄の意見を受け入れ事業譲渡を決めたのですが、業界大手との競争が熾烈になってきていたところだったので、今考えるとあのタイミングで事業を手放したのは正解だったと思います。この時に、第三者的な視点で物事を見ることの大切さを学びました。



先代のお父様はどのような方ですか?

父は本当に一言では言い表せないような大きな存在です。私が子どもの頃は仕事ばかりでほとんど家にいなかった父でしたが、一緒に仕事をするようになってから父とはよく話をするようになりました。

父は常々「目の前の木を見ないで森を見ろ」と言っていました。目の前の利益ではなく、その先にある大きな目的を見据えて仕事をしなければならないという意味の言葉です。目先のことに囚われて将来のことを考えていないと必ずどこかで行き詰まるということを言いたかったのだと思います。そういう視点を父から教えてもらいました。

また、父からは「柳生新陰流」の話をよく聞かされました。剣術である柳生新陰流の極意の一つに人とのご縁の極意があるのです。簡単に言うと「紹介をしてもらったにもかかわらず縁を作れない人は3流。紹介してもらって縁を作れる人は2流。触れただけでご縁を作れるのが1流」という内容なのですが、剣術の極意に人とのご縁に関するものがあることが衝撃的でした。

父の教えが心に残っているため、たまたま連絡をもらったり、たまたま会ったりした方とのご縁も大切にするようにしています。良いご縁には付き合いの長さも関係ありません。10年間の付き合いだから仲が良いというものではなく、たった1年でも良い関係は作れるのです。こう考えると父には本当に多くのことを教えてもらいました。



事業承継において大事なことは何だとお考えですか?

事業継承で1番大事なことは、先代の父親と喧嘩できることだと思っています。売り言葉に買い言葉ではなく、「俺のやり方が嫌なら辞める」と本気で言えるかどうかが重要です。

私は日商平野に入社してから前職の経験を活かして通信事業部を立ち上げ、先代から与えられたものでなく自分の力で売上げをあげている自負があったため、「俺のやり方でやらせてくれ」と本気で言うことができました。

また、心から尊敬する経営者の方との出会えたことが、私が会社を受け継ぐにあたって非常に大きなポイントだったと思います。今でも本当にお世話になっている方で、その方に言われた一言が本当の意味で日商平野を継ぐ決意をさせてくれました。「親を超えようとするあまり親の会社を継がずに自分の会社を立ち上げようなんて考えるな。120%親を利用しろ。利用したうえで恩を返せ」という言葉です。

この言葉があったからこそ、周りから先代である父、平野一男の息子だと言われることを受け入れる覚悟ができました。「俺は平野一男の息子じゃない、平野雅之だ」ではなく、「平野一男の息子さん」と言われ続けることを受け入れたことで、何の迷いもなく会社を継ごうと思えたのです。

 

事業承継後に苦労されたことはありますか?

私の代になる時には既存の主力事業を売却していたため、売上げ規模も従業員数も相当減ってからのスタートでした。そのため、受け継いだものを変えるというよりは第二創業のようなイメージですね。

ただ、苦労したという感覚は全くありません。主力事業がなくなり事業規模が縮小したことで周りから色々と言われたり、噂されたりしたこともありましたが、全く気にしていませんでした。売上げは減っていても利益はあがっていましたし、見栄ではなく中身で戦う覚悟ができていたからです。

だから焦る気持ちもありませんでした。父が40年かけて今の規模まで事業を拡大してきたのだから、私も40年後に同じ規模にまで出来れば別に同じだと思ったのです。親と張り合ったって、売上げが上がるわけではないですからね。

会社を引き継いでからは、親を安心させたい一心で仕事に取り組んできました。息子に代表が交代した途端、会社がおかしくなったなんてことがないよう、売上げを落とさず社員さんのことをちゃんと守ろうといったことを真剣に考えるようになりました。

とはいえ、精神的に落ち着いたのは、父の代からのお客様よりも私に代わってからのお客様の比率が大きくなってからです。コツコツとお客様の数を増やしてきて、今ではプロパンガス事業をやっていたことを知っているお客様の方が少なくなりました。

お客様の比率が逆転した時に、『ああ、これでいつ親父がいなくなっても会社は大丈夫だ』と思えるようになり、これが父の安心にもなっていると思います。もちろん、父はまだ健在ですけどね(笑)。


今後の展望について教えてください。

日商平野という会社を継続させていくことを一番に考えています。売上げを前年対比10%アップさせるといった数値的な目標は掲げておらず、強いて言うなら現状維持が目標です。私の息子が会社を継ぐかはまだわからないですが、私が引退して次の誰かに譲るまで何としてでも生き残ることが五代目としての私の使命だと思っています。

私が会社を受け継いでから10年間、ただひたすら目の前のお客様のご要望にお応えしてきたことで今の日商平野があるので、今後も目の前のお客様にご満足いただくことだけを追求していきます。

私個人の想いとしては、八王子を日本一ワクワクできる町にしていきたいと思っています。大人がキラキラ輝いている町にしたいのです。八王子を子どもたちがカッコイイと思うような大人がたくさんいる町にしていきたいですね。

現在、その一環として「ゆめいく」という大人の学び場を開催しています。「ゆめいく」は、子育てをしている方や会社で部下をお持ちの方などが、子育てや対人関係でイライラしてしまったことを共有し、それをどう解消していくのかを仲間と一緒にワークするプログラムです。

このプログラムを開催して1年半程経ちますが、学生さんや主婦、サラリーマンの方々に多く参加していただき、皆さん凄く変わられました。家で怒ることがなくなったと効果を実感されている方もいらっしゃいます。人として変われたということの体感は素晴らしいですよね。

こういった活動を継続して、とにかく子どもたちが可能性を感じることができる大人を増やし、八王子を日本一の町にしていきたいと考えています。




<インタビュー情報>
株式会社 日商平野
代表取締役 平野 雅之
会社ホームページ http://nisshohirano.co.jp/
​​​​​​​ゆめいく https://peraichi.com/landing_pages/view/yumeiku802

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