お客様目線を追求し、選ばれる技術者集団

株式会社西尾硝子鏡工業所
代表取締役  西尾 智之



創業から現在に至るまでの変遷について教えてください。

三重県松坂から上京し東京浅草のガラス屋さんで丁稚奉公をしていた私の祖父、西尾五一郎が1932年に独立したのが西尾硝子鏡工業所の始まりです。創業当初は鏡を製造するメーカーでした。

戦時中には一旦事業を中断したものの、戦後の焼け野原から一から事業を仕切り直し、戦後復興期の波に乗り鏡製造の事業を拡大。しかし、1950年代前半に大手ガラスメーカーが自社で鏡の製造を内製化したことで鏡の町工場として岐路に立たされることに。

当時二代目社長を務めていた私の父は、祖父が始めた鏡の町工場を続けるのではなく、大手メーカーの代理店として二次加工業へ転換する道を選びました。結果として代理店契約を選ばなかった他の鏡屋さんはほぼ全て消滅。外部環境の大きな変化に対し、当社は事業転換することで生き残ってきたのです。

その後、高度経済成長期に店舗の装飾分野が大きくなってきたことにあわせて鏡だけでなくガラスの加工も取り扱うようになり、会社の規模も徐々に大きくなっていきました。

現在では百貨店やショッピングセンターなど商業施設のショーケースやショーウインドウなどガラスのディスプレイに関する仕事を主たる業務としており、オーダーメイドのガラス加工に特化した事業を展開しています。



御社の強みや特徴は何ですか?

特徴の一つはマーケットを一都三県に絞り、都内に工場を持っていること。新宿や渋谷など人が多く集まる商業エリアが当社のマーケットで、自社工場から半径15~20km圏内、車で1時間以内で移動できる距離に位置しています。当社のように都内に工場を置いてマーケットに近いエリアで加工を行なっている会社は少ないです。

もう一つは、幅広い商業施設の内装業界の中で、ガラスの接着に特化して技術力を磨いてきたこと。欧米のラグジュアリーブランドで使われているショーケースなどにフォーカスしたことで、ショーケースのガラスの接着といえば「西尾」と言われるくらい専門性を高めてきました。

今ではある程度「西尾」ブランドが確立されてきており、ライバルである同業他社からも認められるまでになったのは有り難いですね。「西尾」ブランドが浸透するまで10年近くの歳月がかかりましたが、狭い市場の中でも一番を目指す戦略を実践してきた結果だと思っています。


御社の経営理念を教えてください。

当社では最終的に製品や商品に触れるお客様の視点を大切にしています。『お客様にとっての問題を解決でき、喜びと満足を提供し、「共有」できる、生きた技術集団になろう』という経営理念を掲げているのもそのためです。

仕事をしていて一番やりがいを感じられるのは、お客様から「ありがとう!」と言ってもらえる瞬間。自分たちの仕事が認められたときの嬉しさは何物にも代えられません。

経営理念は会社の原点であり、困ったときや迷ったときに立ちかえるべき場所だと思っています。会社としての「在り方」を示した言葉が理念あり「拠り所」でもあるのです。この理念がブレると会社はおかしくなっていってしまいます。

お客様に喜んでもらうためのモノづくりが当社の原点。どれだけ優れた技術を持っていたとしても、お客様に必要とされていなければ何の意味もありません。自分勝手なモノづくりではなくお客様から選ばれるモノづくりを徹底し、お客様から選ばれることで生かされているという想いは常に持ち続けています。


西尾社長が入社した経緯を教えてください。

小学生の頃から母親に「長男なんだから継ぐのが当たり前」と言われていていたのですが、正直に言って継ぎたいとは思っていませんでした。高校、大学の頃もアルバイトで集金やガラスの配達など手伝いはしていたものの、仕事の内容に今一つ興味を持つことができなかったんです。

父からは「好きな道を行け」と言われていたこともあり、大学を卒業後は就職活動をして家業とは全く関係のない大手総合商社に就職し、サラリーマンとしての道を選択しました。しかし、就職して一年目の冬、父が病で他界したことにより人生の転機を迎えます。

忘れもしない1992年の2月23日、父が亡くなる前日のことでした。病気で入院していた父が危篤だということですぐに面会に行き、父と二人、病室で話をしたのです。ずっと闘病生活を続けていた父は満足に話せるような状態ではありませんでした。父に向って何と言っていいか言葉にできず……20分間の沈黙の後、自然と出てきたのが「俺が継ぐから安心しろよ」という言葉だったんです。

それを聞いた父は、布団から手を出して力強く私の手を握り締め、二回うなずいて微かに涙を流していました。父が亡くなったのはその翌日です。本心から継ぎたいと思っていたわけではありませんでしたが、最期に父と握手して交わした約束を守るため西尾硝子鏡工業所に入社する決意を固めました。



入社後に苦労されたことはありますか?

入社したのは父が亡くなった翌年1993年の1月、私が26歳の時でした。ある程度は覚悟はしていたものの現実は甘くありませんでしたね。今考えるとよく乗り切れたと思えるくらい苦難の連続でした。

ガラスの加工はできない上に、実質的に社会人経験2年目の若輩です。まずはガラス加工を理解しなければ何も始まらないと現場を経験するところから始めました。その後は、新規開拓営業として飛び込み営業を経験したり、製造、工事、業務、デリバリーと全ての業務を一通り経験。能書きではなく現場の仕事をしっかりと把握することに努めました。

新年の挨拶の後、新年会に参加したのですが、すごくアウェーな雰囲気だったことを今も覚えています。カラオケでは若い自分が真っ先に歌わなければと、年配の方に合わせて演歌を歌ったのですが、面白いくらいに総スカンを食らいました(笑)。

社内だけなく社外でも風当たりは強かったですね。業界の新年会で名刺交換をしても同業者に名刺を受け取ってもらえませんでした。名刺を渡した傍から破り捨てられたり、塩を撒かれたこともあります。父親とここまで違うのかと愕然としました。

常に社員や取引先からは先代と比較されて色々と言われていました。社内ではアウェー、社外でも同業者から受け入れられず、人間不信のような状態に。自分の力が足りないからだと言い聞かせ、そういう態度をとった人たちを見返してやることをモチベーションに必死に業界のことを勉強してきました。



社長に就任された経緯を教えてください。

社長に就任したのは2000年。失われた10年と言われるバブル崩壊後の後始末をしているような時代背景で、業界内でも統廃合が進み、取引先が毎年のように倒産する厳しい状況下での事業承継でした。

90年代は当社の経営も順調と言える状況ではありませんでしたが、2000年代に入り、丸ビルの竣工や汐留、六本木の開発など、東京都内が再開発ラッシュだったことで何とか息を吹き返すことができました。

社長に就任した頃、私もまだ30代半ばで、ちょうど脂が乗った働き盛りの時期でした。この頃は自分自身が圧倒的な結果を残さなければいけないという思いで奔走していましたね。俺について来いというリーダーシップを発揮し、常に強くて解答を示し続けることがリーダーの役割だと思い込んでいたんです。

時には社員に厳しい要求をしたこともありました。ふと足を止めてみると組織全体が疲弊していたように思います。今思えば、言いたいことが言える雰囲気ではなく、不満が鬱積しているような組織状態でした。



社長に就任後、組織・風土面での課題に直面されたのですね。

そこに追い打ちをかけたのが2008年のリーマン・ショック。売上げが半分以下に落ち込みました。それからしばらくの間は、会社の中でやることなすこと上手くいかないことの連続。全社発表で方針やビジョンを打ち立てても浸透しない。それがなぜなのか理解することがなかなかできませんでしたね。

転機となったのは、外部の専門家に会社の今後について本音で相談をしたこと。当時の私は最悪の状態だった会社の在り様にあきらめを感じ始めており、廃業を考えていると打ち明けたんです。

その専門家から、「あなたの判断に社員たちの運命も委ねられている」、「80年続いてきた会社をそんなに簡単に諦めていいのか」とアドバイスを頂いたことで、自分自身まだやりきっていなかったことに気づかされ、あと一年やってみようという気になりました。

本気になって会社を立て直す覚悟を決め、母親である会長、叔父である工場長の二人に退任してもらい、社員の中から経営幹部を選出。社員一人ひとりと真剣に向き合い、会社の将来についてとことん話し合ってベクトルを合わせていくことを経験しました。このときが家業から企業へと切り替わったターニングポイントだったと思います。



組織・風土改革の効果はありましたか?

私自身も過去の自分と向き合い、自分自身の棚卸をしました。自分が歩んできた道のりを年表にまとめ、経営者として行なってきたことを振り返ったんです。結果的には自分自身のこれまでの歩みを否定するのではなく、よくやってきたじゃないかと肯定する気持ちになれました。自己承認をした瞬間、気持ちがスッと楽になったのを覚えています。

それまでは、トップは弱みを見せてはいけない、常に答えを出さなければならないと思い込んでいたのが嘘のように氷解して、人の話を聞く耳を持つことができるようになりました。私の中でパラダイムシフトが起こったんです。企業経営にとって経営者のマインドが何よりも大事だということに気づかされた瞬間でした。

2008年から三期連続で赤字だった業績は急激に回復。結局社長である私が変わることで社員や組織を変えることができたのです。外部に社長の想いを聞いてくれる人がいれば社長は自己承認することができ、人の話を聞くことができるようになります。そのサイクルが生まれたことがV字回復の原動力でした。

その時の業績は減収増益。ひたすら損益分岐点を下げ続けた結果、粗利率が改善して筋肉質な会社に生まれ変わりました。そのときに学んだのは粗利が競争力の源泉であること。粗利が全ての指標であり、結局は粗利で固定費が賄えているかどうかだけの話なんです。




今後の目標・展望を教えてください。

15年前から毎年、会社の経営方針を打ち出す事業発展計画発表会を継続的に開催しています。今年は、5年後に社員数を6名増員し、売上高も毎年平均9%ずつ成長していく目標を掲げました。

創業100周年となる2032年、ここを私自身の集大成として考えています。事業展開としては、2032年に向けて自社の強みを活かした事業と、業界の将来に貢献できるような事業を展開していく予定です。そのために①加工卸事業、②内装工事事業、③完成品事業、④産業観光事業、⑤専門人材育成事業という5本の事業の柱を立てています。

5本の事業のうち、①と②は現在のメインの事業、③の完成品事業として自社独自のオリジナルブランドの制作を考えています。④の産業観光事業は、年間で700~800人の来場者が訪れている工場見学の事業。現在は無料で提供しているサービスを今後有料のビジネス化していきたいですね。

そして、⑤の専門人材育成事業を掲げているのは、若い人たちにモノづくりへの理解を深めてもらい専門人材の育成をすることで、自分を育ててくれた業界へ恩返しをしたいと考えているためです。

お客様目線で物事を考えることができる若い職人さん育てることで、業界を活性化させて未来を創っていきたいんです。現在の職人の平均年齢は40代後半。若い人が働きたいと思えるような付加価値の高い業界にしていかなければ業界自体がなくなってしまいます。

65歳で事業を引き継いで引退することは決めているので、最後の10年間で未来を創る次世代の人材を育成していくことが私の使命だと思っています。


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<インタビュー情報>

株式会社西尾硝子鏡工業所
代表取締役  西尾 智之
会社ホームページ http://www.nishio-m.co.jp/

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