他と同じことをしてもしょうがない。いかにして自社のブランドを作るか

ケィディケィ株式会社
代表取締役 佐藤 武志


 創業から現在に至るまでの変遷について教えてください。

1969年に私の父が電気絶縁材料を販売・加工する会社として創業したのがケィデイケィの始まりです。当時は有限会社で協和電材工業という社名でした。電子機器など今は半導体など小さい部品になっていますが、昔はプラスチックの板などの電気絶縁材料が主流だったんです。

創業当時は高度経済成長期の真っ只中。国内の需要がどんどん増えてきた時代背景の中で、電気絶縁材料だけでなくベルトコンベアなどに使われるプラスチック製部品を製造するエンジニアプラスチックにも参入し、1970年代~2000年くらいまでかけては右肩上がりで成長してきました。

そして2004年に関連会社と合併してケィディケィ株式会社に社名を変更し、現在は製造機械などに必要とされる精密なプラスチック部品の製造販売を主軸としています。我々の製造する部品の供給が止まってしまうと世の中の生活必需品の生産もストップしてしまうため、生活必需品を生産する上で欠かせないプラスチック部品のプロフェッショナルとしての自負を持って取り組んでいます。

私が社長に就任してから、社名であるKDKの頭文字から「K 顧客要望や環境配慮に対して!」、「Day 日々努力し、社会貢献して!」、「K 企業繁栄させ輝く未来へ!」という社訓を掲げるようになりました。

今は半導体製造部品を主な事業としていますが、時代の流れとともに必要とされるものが変化してきた時は、日々努力して社会貢献のために対応していきたいと考えています。



子どもの頃からお父様が創業された会社を継ぐ意思はありましたか?

小さい頃は父の会社を継ぐことは全く考えていませんでした。ただ、小学生の時に将来の自分の絵を描くという課題に対して、この工場で働いている自分の絵を描いていたのは覚えています。

地元の工業高校を卒業して情報処理専門学校に進学したのですが、お恥ずかしい話、将来のことはあまり考えておらず趣味やアルバイトに明け暮れていましたね。卒業後もケィディケィではなく、専門学校に講師で来ていた社長に誘われてIT関連の会社に就職しました。

しかし、働いているうちに最終的には家業を継がなければならないと考えるようになり、当時、取締役として働いていた叔父に戻ってこいと言われたことをきっかけに1989年にケィディケィに入社することになったんです。

私の父親はどちらかというと私に継がせたいとは考えていなかったようです。苦労の絶えない工場の仕事を身内に継がせたくなかったのでしょう。父からは「他で好きなことを見つけて働けばいい」と昔から言われていたので自分からやりたいとは言わなかったのですが、結果的にはぷらぷらしてる自分を見兼ねて叔父に声をかけてもらったことで入社を決めました。


 入社されてからどのような仕事に取り組まれてきましたか?

入社してからは叔父が担当していたお客様を午前中は工場で製造に関わり、午後は外回りというサイクルで働いてきました。転機となったのが、私が入社して2~3年目に社長の父と取締役の叔父の意見が対立したことで突如叔父が退職してしまったことです。

当時、父の担当していたお客様と叔父の担当していたお客様があったため、無条件で私が叔父の担当を引き継ぐことになりました。父と私の二人だけでお客様対応をしなければならなくなったため、ただ何も考えず目の前の仕事を必死にこなしていたように思います。

20代前半から叔父のお客様を引き継いでがむしゃらに営業していたら、売上げがドンドン上がり「20代で社長になってやる」と天狗になっていましたね。

そのため地道な父とはよくぶつかりました。

早く社長になりたい一心だった20代から考え方が変わってきたのは30代に入ってからです。2000年頃を境に売上げが頭打ちの状態になってきており、がむしゃらに営業して価格と納期で勝負するスタイルに限界を感じはじめました。

90年代はインターネットが普及しはじめた時代です。知り合いがインターネットを活用して海外から商品を輸入して販売するビジネスを始めていたのを聞いて、今自分がやっている仕事は数年後には通用しなくなるなと直感したんです。

2000年に入り30代になってからは、社長になるというよりもケィディケィ独自のブランドを作り上げて特徴のあるビジネスにシフトしていかなければならないと強く思うようになりました。



社長に就任されてから困難に直面されたことがあれば教えてください。

2007年、私が39歳の時に二代目として社長に就任しました。父から突然切り出され急遽代表を交代することになったんです。就任した直後、主要の大手クライアントが国内事業から撤退したことで、売上げが3割も落ち込むという事態が生じてしまいました。

微細加工を取り入れるなど、会社の特徴を出すためのブランド化に取り組んでいた矢先だったため、出鼻をくじかれる形になりました。さらに2008年のリーマンショックで追い打ちをかけられ、翌年も売上げは3割落ちてしまいました。

今までブランド化としてやってきたつもりが、結果中国、タイなど東南アジアなど単価の安いところにお客様はどんどんシフトしていってしまいます。社長に就任してこれからという時に不測の事態が立て続けに起こったことで、自分に何か原因があるのではないかと真剣に悩みましたね。それまで営業マンとしては会社に貢献してきた自負はあったものの、毎月赤字が続き経営者として直面した危機に対してどうすることもできない自分にもどかしさを感じていました。悩んで悩み続けていたある日、何故だか「これは天からの挑戦状だ!」と思うようになれたんです。ブランド化として再度色々考え、ケィディケィの特徴や強みを作るために挑戦したのが大型のプラスチック部品の製造でした。


大型のプラスチック部品の製造は技術的に難しいものなのでしょうか。

プラスチックという素材は金属などと比べて熱変異が非常に大きく、温度変化によって1mの棒が10℃変わるだけで5mm近く変わりますが、部品精度に例えると1mm以下で加工しなければなりません。また、金属に比べて非常に柔らかいのも特徴です。

そして、部品が大きくなればなるほど加工するための設備機械も大きくなり、当然金額も高額になります。しかし、40年近くプラスチックという素材を取り扱ってきたケィディケィとして、プラスチックで一番難しい分野に挑戦することを決めたんです。

売上げが急激に落ち込んだ一番苦しい時期ではありましたが、2009年からの3年間で大型のプラスチック部品製造を手掛けるために1億円規模の設備投資を行いました。周りからは土地が高い都内で「そんな無茶な設備投資をして…」と揶揄されましたが、現在、主力になった半導体の製造装置の部品を手掛けるきっかけになりました。

今では、勝手に大型の部品の問い合わせがくるようになり、材質の違いや加工難易度は日々厳しくなっていますが、これも世の中がデータ大容量に向けた設備への貢献と捉え、お客様の要望を満たした高い水準の加工ができることがケィディケィの強みになっています。



今後の展望について教えてください。

ケィディケィは創業から現在まで変わらずプラスチックを取り扱ってきた会社です。その中で、時代が変わってもお客様が何を求めているかを捉え、精密加工や大型加工などを自社の強みとして見出してきました。今後も、時代が変われば求められてくるものも変わってくると思うので、従来の常識に固執するのではなく日々努力を続け柔軟に対応していければと思っています。

大型のプラスチック部品製造でK結構D出来るK会社の強みを築くべく今後はいかに生産性を上げるかがテーマです。そのために、次はロボット化の推進や、工場の稼働率を向上させることが必要になってきます。次は24時間対応できる工場の設立を目指しています。

また、数年前から次世代の人材育成にも力を入れていて、20代の若手技術者を2~3人程育てていくことに取組んでいます。現在社員平均年齢が45歳になっていますので、技術を絶やさないためにも若手世代の育成は避けては通れません。

将来的には大きな目標を掲げているわけではありませんが、何よりも大切なことは仕事を楽しむことだと思っています。他の誰かが楽しそうだからやりたいとケィディケィの仕事に興味を持ってくれると思っているんです。そうやって次の世代にケィディケィを引き継いでいきたいですね。






<インタビュー情報>
ケィディケィ株式会社
代表取締役 佐藤 武志
会社ホームページ http://www.kdk1971.co.jp/
         http://www.plastics-parts.com/

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