社員の人間力を磨いて、岐阜県No1.を目指す


五十嵐工業株式会社
代表取締役会長 五十嵐 亮一



御社の業務内容と創業から現在に至るまでの変遷について教えてください。

五十嵐工業は、岐阜県中津川市を中心に、業務用の水回り工事である「給排水設備」「空調設備」「道路への上水道配水管敷設」の設計から施工までを手掛ける会社です。このほかに、各種改修工事も取り扱っています。

父の姉の嫁ぎ先が給排水設備工事業を営んでおり、義兄の会社を手伝っていた父が昭和46年に独立して五十嵐工業を立ち上げました。創業当初は父を含めて3人でスタートし、民間設備の給排水設備工事を中心に事業を展開していたと聞いています。

その後、実績を重ねたことで官公庁からも受注できるようになり、徐々に事業を拡大。隣県にも進出して大きな工事を請け負うことができるようになり、技術力を磨いてきました。ただ、工事内容は基本的には変わっていません。事業エリアとしても、岐阜県の東濃地域、国道19号と中央線の沿線を中心に行っています。

このエリアの設備工事会社としては、当社がNo.1の工事の受注高を上げています。社員数を30人以上抱える会社は東濃地域には他にありません。また、社員の質も当社の強みです。社員の平均年齢も38歳程度で、さまざま資格取得者の数も増加しています。



五十嵐工業に入社された経緯を教えてください。

学生の頃はやんちゃしていましたね。横着が過ぎて高校を中退することになり、両親には本当に迷惑をかけたと思います。それからしばらくの間は、長野県の飯田にいる伯母の家に世話になりながら、紹介してもらった水道屋さんで働かせてもらっていました。

周りからの助言もあって働きながら地元の定時制高校に通い、卒業後は、現場の仕事を経験するだけでなく管理や設計のことを専門的に勉強してみたいと考え、勤めていた会社を辞めて建築設備専門学校に進学。

専門学校を出てからは設計事務所に就職しました。思い返すと、この頃から父の会社を継ぐことを意識しだしていたかもしれません。父の苦労も見ていましたし、飯田市へ行った時も働くのなら家業に近い仕事がいいと考えて水道屋さんを選んでいたような気がします。

五十嵐工業に戻ることになったきっかけは「帰って来い」という父の言葉でした。私は「一級建築士を取るまで(設計事務所に)いる」と反発したのですが。父に押し切られてしまいました。当時はバブルに突入するくらいの時代背景で、五十嵐工業では大型工事の仕事を増やす方向にシフトしており、管理の人手が足りていなかったんだと思います。



代表を交代して社長に就任されるまでの経緯を教えてください。

五十嵐工業に入社してからは現場の施工管理を担当しました。その頃は現在のように厳しい規制もなく現場ごとの書類も少なかったため、多い時では二十現場ぐらいを受け持っていたこともあります。とにかく忙しい毎日で、父の後を継ぐというよりも、まずは技術を覚えて目の前の仕事をこなすことしか頭にありませんでした。

その後、現場管理の仕事から積算や設計といった社内の仕事に移ったのに伴い、だんだん仕事に対する見方が変わってきました。設計の仕事に移った時には取締役に就任していたため、いずれ父の後を継ぐことを意識するようにはなっていましたね。実際に承継の話もチラッと出だしてはいたのですが、その頃は経営者になる自信がまだありませんでした。

ところが、2月のある日、会社で昼食をとっていたら、銀行から「社長就任おめでとうございます」という電報が私宛に届いたんです。確認すると、実は前年の10月の時点でもう父が私にいろいろな名義を変更していたということでした。これには、驚きましたね。社外からの電報で社長に就任したことを知るなんて、世の中で私一人ではないでしょうか(笑)。



二代目として変えるべきところと変えてはいけないと思うところはありますか。

父はどちらかというと経営者というより営業マンタイプだったので、会社の財務は経理担当者に全て任せっきりのような感じで、以前はどんぶり勘定で経営をしていました。しかし、それではどうしても安定した経営を行なうことはできません。私がトップになってからは財務をしっかり意識した経営を心掛けるようになり、その甲斐もあってだいぶ会社らしくなってきたと思います。

一方で、父から引き継いだ生真面目な社風は変えてはいけないと思っています。父は本業に一生懸命で本当に真面目な性格なんです。父の気風そのままに当社も真面目な社風が根付いており、横着なことや悪どいことは一切しないのが当社の強みだと自信を持って言えます。

自分の土地ではないところでゼロから会社を創業し、業績を伸ばしてきた父のことは本当に尊敬しています。また、義理と人情を大切にする人で、父は独立する前に働いていた会社の取引先には一切営業に行かないことを徹底していました。そういう意味では、本当に昔気質で義理堅い人でしたね。



事業承継に関して苦労されたことを教えてください。

私が代表になってから父には会長を務めてもらい、業務としては今まで通り動いていました。弟を専務にして、その後、父は代表権を外して徐々に仕事から離れるように。

社長に就任後3年ほど経った時に、思うところがあって弟に代表を譲りたいと考えるようになり、「2年間勉強して私と交代して社長をやれ」と言ったのです。実際に2年後に弟を社長にして、私は代表権を外して平取締役として呑気に構えていました。

この交代劇に対して、父も嫁も、周囲はみんな反対していましたね。外部のコンサルタントからも反対されました。それでも強引に代表交代を進めた結果、社員がどんどん辞めだしてしまうという事態に……。これには参りました。大事な人材が辞めていくのですから。

離職者が相次ぐ状況を打開するために、代表取締役会長という肩書でもう一度代表権を取り戻してカムバックしました。そのきっかけは、今の専務がこの状況をなんとかしてくれと私に訴えてきたことでした。私が経営というものを真剣に考えだしたのはそれからですね。その時から、行動の軸足を現場から完全に引き上げて、管理側に移しました。マネジメントすることに全ての時間を費やすことにしたのです。



今後のビジョンや目標を教えてください。

まず会社存続させることが私の一番の使命だと思っています。存続するために強化していかなければならないのはサービス力。当社の仕事は建設業でありながらサービス業だと思っているので、技術を向上させていくことはもちろんのことサービス力も含めた人間力を高めていきたいですね

人間力を高めていくことで業績を上げて、10年後には今の10倍ぐらいには会社を成長させていきたいと考えています。もちろん簡単なことではありませんが、岐阜県で一番の会社になりたいと思っているんです。

現在は、サービス力・人間力を高めて業績を伸ばしていくという目標を、徐々に社員たちに浸透させていっているような段階です。世代によって温度差はありますが、20代の若手社員は吸収も早く、目に見えて成長していっているので頼もしく思っています。

ただ、人材が不足しているため、受注を調整せざるを得ない状態になってしまっているのが現在の課題です。せっかく依頼してもらった仕事を断らなければいけないような現状には歯がゆい思いしかありません。そのため人材採用に関しては海外も視野に入れており、10月にはベトナムに求人活動へ行き、5月から3人採用します。

外国人労働者の雇用に関しては、彼らがいずれ国に帰るとしても、何も得ないまま帰国するのは、彼らにとっても当社にとってもマイナスなので、現地職人集団の会社が作れないか、といったようなことも見据えています。





<インタビュー情報>

五十嵐工業株式会社
代表取締役会長 五十嵐 亮一
会社ホームページ https://www.igarashi-ec.jp/

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