Original

「未来の幸せを共に育む」という理念の下「食」に関わる仕事であれば何でもトライしてみたい

株式会社富士キッチン
代表取締役 岩田 直樹

創業から現在に至るまでの変遷について教えてください

株式会社としての設立は1977年(昭和52年)です。創業者の父親は中学校卒業してから親戚筋が経営していた小田原の富士キッチンという飲食店で働いており、そこから暖簾分けのような形で独立したのが平塚富士キッチンの始まりです。
90年代から2000年代中頃にかけて店舗数を増やし事業を拡大する傍らで仕出し料理も手がけるようになりました。現在では神奈川エリアを中心に、海鮮問屋「ふじ丸」や焼肉店「快」、焼き鳥の「快」などの店舗運営と、仕出し料理・ケータリング事業の二本柱で事業を展開しています。

岩田社長が平塚富士キッチンに入社した経緯を教えてください

大学を卒業してから、まず中華料理店を運営する大手の一部上場企業に就職しました。就職した当時は、父親の会社を継ごうということはあまり考えていませんでした。最初は上野にある中華料理店の現場で働いていたのですが、途中から本部の財務部に異動することとなり約1年その会社で勤務しました。

元々飲食店の現場で働くのが性に合っていたので、財務部に異動になったときは辛かったですね。大きな会社だったのですが、仕事の引き継ぎなどが全くなく何をすればいいのかわからないような状態でした。それに、現場が好きな私は、不慣れな財務資料を作成する業務に従事することになり、やりがいを感じられなくなってしまったんです。

異動して半年ほど経った頃、父親から「小田原の駅前に居酒屋を出店するから、その店で働いてくれないか」と声をかけられたことで、平塚富士キッチンで働き始めることになりました。おそらく父は、当時の仕事をしていた私の暗い表情を見て、心配して声をかけてくれたんだと思います。

入社してからはどのようなお仕事をなされたのですか?

平塚富士キッチンに入社して1年半ほど小田原の店舗でホールマネージャーを務めた後、新店舗の出店に数多く関わるようになりました。新しく出店した店舗のオペレーションを整えて、落ち着いてきた頃に次の新店舗に移るといった感じで、次々と5店舗くらいのオープニングスタッフを任されたんです。新店舗の立ち上げは大変でしたが、基本的に現場で働くことが好きなので苦に思ったことはありませんでした。

先代社長である父親は新しい店舗を出店することが楽しかったんだと思います。1年に1店舗のペースで出店していました。

特に店舗の立地に関しては相当ぶつかりましたが、今思えば父の中では多分勝算があって出店を決めていたんだと思います。幹線道路の交通量が多いところに大きめの店舗を作って集客するといった考えを感覚的に持っていたんじゃないかと。当時は外食産業がまだ少なかった時代でしたから、父の感覚で出店したお店も順調に客足を伸ばしていきました。

事業承継するまでの経緯を教えてください

2000年代前半頃には、基本的には現場の仕事を離れ本部で管理業務に就くことになりました。管理業務と言っても、各店舗の店長が集まる店長会に先代社長に着いて出席しているような状態で、当時の店長は私より10歳くらい歳上の方ばかりでしたから影響力もあまりありませんが(笑)。その間も、新しい店舗の出店が決まれば現場に出ていましたし、新しい店舗が落ち着いたら本部に戻るといったサイクルがしばらく続きました。

その頃は、既に仕出し料理も手がけるようになっており、外食店舗と仕出し料理の二つの事業が柱になってきていました。次第に仕出し料理の方は父と番頭さんで見て、外食店舗の方を私が統括するような状況になり、このまま何となく会社全体を引き継ぐのかなといった思いはありましたね。

しかし、ある日突然父が倒れ67歳で急逝してしまったため、きちんと継ぐ覚悟が固まる前に事業承継を考えなければならない状況に陥ってしまったんです。父が亡くなった直後は役員であった母が一旦代表を務め、2年後、私が39歳の時に社長に就任することが決まりました。

以前からの取引先との関係を考えて、急に息子に引き継ぐのではなくワンクッションあった方がいいだろうと母なりに考えてくれたんだと思います。実質的な業務は私と番頭さんの二人で動かしていましたが、母が代表を務めてくれた2年間の猶予期間があったおかげで慌てずに社長に就任することができました。

社長に就任してから困ったことはありましたか?

もともと、キャリア形成などの仕組みがなく、人を育てるということに注力してこなかったので、その部分は何とかしなければいけないと思いました。父が亡くなる少し前までは1年に1店舗ずつコンスタントに出店していたので自然と店長職も増やしていくことができていましたが、出店が止まるとポストを増やすことができないため膠着状態になってしまったんです。

父が亡くなる前の年にリーマンショックが起こったこともあり、景気も次第に悪くなってきて売上げが減少する店舗も目立ち始め、以前はかなり稼いでいた店長も給料が減って退職してしまうということもありました。要するに、新しい店舗を出店して会社も人も成長するという従来のビジネスモデルが通用しなくなってきたんです。

また、景気の煽りを受けて成長路線の根幹が揺らいだのに加えて、仕出し料理事業を仕切っていた番頭さんが退職せざるを得ないような状況になったりと、就任してからは色んなことが重なって大変だったのを覚えています。

その後も、2011年にユッケ食中毒問題や震災後のセシウム汚染牛の問題もあり、特に焼肉店の落ち込みは著しかったですね。本当に立て続けに様々な問題が生じたため、表面上は平静を装っていましたが、精神的に相当苦しく体重がみるみる減っていきました。

そういった荒波の中で、どんなことに取り組まれましたか?

まず取り組んだのは、会社の経営理念と行動指針を定めることです。以前から知り合いだったコンサルタントの方からアドバイスをいただき、理念を明確にすることから始めようと決めたのです。

平塚富士キッチンに関係する皆様と一緒に幸せを育んでいきたいという思いを込めて「未来の幸せを共に育む」という経営理念を策定し、理念の実現に向けて「おいしい料理を追求する・心のこもった挨拶をする・お客様目線で考える・人の喜びを自分の喜びとする・素直に学び、自ら考え、仕事を楽しむ・常に目標を持ち、挑戦する」という6つの行動指針を定めました。

実際に変化が生じてきたのは最近なのですが、社内で理念や行動指針、ビジョンなどを普通に口に出す社員が増えてきました。時間はかかりましたが、会社の共通言語として徐々に浸透してきたことを実感しています。

また、会議やミーティングを習慣化するよう2年間かけて仕組みを整えてきました。月に2回開催している店長会議でも、最初の頃はトップダウンで進んでいくことが多かったのですが、店長たちも成長して積極的に意見を出してくれるようになってきており、ボトムアップ型の組織に生まれ変わりつつあります。今では店舗の方針や人事なども店長たちと全員で話し合って決めるようになってきています。今まさに成長している途上なんです。

私が社長に就任してから実は5店舗閉鎖していますが、逆に社員数は増えています。つまり、一店舗あたりの生産性が上がってきているということです。新入社員が増えていくのに伴って、ある程度離職者も増えていますが、3年保てばその後も続いていくという分岐点も見えてきました。

今後の展望について教えてください

以前のように、店舗数をどんどん増やしていくのはあまり現実的ではないので、やはり企業性を磨いていくことと、ゆっくりでいいので新規出店をしていくことが目標です。

また、生産性の向上を目指しながらも、一方で、働いているスタッフのスキルを上げれるようにしていきたいと思っています。生産性を追求するためにオペレーションを標準化して誰にでもできる仕事にするのではなく、せっかく飲食業で働いているんだから、ここでしか身に付けられないものを身に付けられる場所にしたいんです。

たとえば、焼き鳥を常に美味しく焼くのは難しい技術ですが、その技術を身に付けられれば何処の焼き鳥屋に行っても通用します。他にも肉の目利きだったり、魚の仕入れだったり、ホールスタッフにもそういったスキルはあると思うんです。そういった各スタッフのやり甲斐やキャリアに結びつくようなスキルを身に付けられる会社でありたいですね。

あとは、会社として農業をやりたいという想いがあります。平塚富士キッチンが将来的にどうなっていくかを考えた時、極端に言えば、店舗ごとに独立していっても全然いいと思っています。私には娘が二人いるのですが、彼女たちに事業承継をする際に、うちの会社がやっている事業の中でやりたいと思える一部の事業の承継でもいいと思っているんです。

将来的な会社の在り方を考えた時、会社のスタッフ達にとっても、私の子ども達にとっても「農業」のような川上の事業があるといいなと考えています。先代から受け継いだ人・店などの様々な財産を活かし、「未来の幸せを共に育む」という理念の下、「食」に関わる仕事であれば何でもトライしてみたいですね。

 

<インタビュー情報>
株式会社富士キッチン
代表取締役 岩田 直樹様
会社ホームページ https://fujikitchen.co.jp/

この記事を読まれた方が他に読んでいる記事