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樽一①-創業50年!親父の熱き想いを受け継いだ2代目の物語


プロフィール

<社長プロフィール>
・佐藤 慎太郎(さとう しんたろう)※ニックネームは「しんちゃん」
・1971年生まれ
・東京都豊島区大塚出身
・1993年入社
・2003年より現職
・2代目
・趣味:ブラスバンド

<会社プロフィール>
・株式会社ネオユニバース
・業種:飲食店
・従業員:30名
・創業:1968年

株式会社ネオユニバース(http://www.neouniverse.tokyo/
新宿居酒屋「樽一」(http://www.sinjyuku-taruichi.co.jp/

〇創業時からの想い
食は理屈ではない
人間の存在そのものである
そしてその民族の文化である


始まりは高田馬場の7坪

50年前の1968年に私の両親が高田馬場に7坪だけで開いたのが樽一でした。

親父は宮城県の出身で「故郷の味を東京の人に」という想いが強く、勢いをつけてどんどんと出店していきました。

私が大学生の時には、南大塚に仙台牛のステーキとしゃぶしゃぶのお店を出していました。

私は学生の時から樽一でバイトをしていて、当時あったのが高田馬場と神田と池袋と新宿でした。各店舗の人が足りないところを回りながら、樽一について学んでいた時期ですね。


小学生の時からお店を継ぎたかった

私は子供の時からお店を継ごうと思っていました

新宿店に家族で連れて行ってもらうことがあって、それが何よりの楽しみでした。
お父さんのお店だから自分のお家という感覚で、「自分のお家でこんなにみんなが喜んでくれるんだ!」と子供心に思っていました。

だから小学生の時の卒業文集には「お父さんの後を継いで経営者になります」みたいなことを書いていたんです。

そのまま中高大と進み、大学は日大の商学部だったんですけど、学業というよりは人間関係をつくりにいったようなものでした。大学ではアーチェリー部で、オール日大で出るような本格的な100人くらいいるところの主将をやっていました。

中高はブラバンで部長をやっていたり、学級委員長をやったりで、昔からあまり自分でグイグイ引っ張って行くタイプではないですけど、どうすればみんなが円滑に動くのかを考えるマネージャーのような立ち位置にいました。

各自の強いところを持ち寄って苦手な部分を補うような、そういった関係性を調整するのが私の役割でした。


父の急逝により2代目に

大学を出てそのまま樽一に入社しますが、国税庁の醸造試験場というところへお酒の勉強に行きました。

バブルの時はお店を空ければ勝手にお客さんが入ってくるという状態だったらしいですけど、私が入社した当時はバブルがはじけた後だったのでそんな状況ではありませんでした。

当時は朝から夕方まで醸造試験場に通い夜は大塚のしゃぶしゃぶ屋の店長をやっていました。その後、調理師学校にも通い、その時にたまたま新宿の店長が病気で倒れてしまって、新宿店に呼ばれ昼間は学校、夜は店長という感じでした。

結局店長は戻ってきて、私は店長の補佐的な立ち位置でお店全体を見ておりました。

親父とはいつも築地に一緒に仕入れに行くんですけど、家に戻って昼寝をしていたらそのまま亡くなっていたんです。それで2003年に急きょ事業を引き継ぐことになりました。


目指している方向性が同じだからこそ、喧嘩は絶えなかった

親父は「浦霞を東京に」と言ってお店をつくった居酒屋業界の草分け的な人でした。

『鯨の食文化を守る会』というところの副会長をやっていたので鯨業界でも活躍しておりました。

損得抜きにお客さんにお酒をふるまったり、蔵元の息子に「この日本酒はなっていない!」と叱ったり、みんなのお父さんという印象が強いですね。

顔の広い人で、亡くなったとき、飲食業界、鯨業界、日本酒業界など大勢の方が集まって別れを惜しんで下さり「ああ、俺だけの親父じゃないんだ」と痛感しました。

とても人徳のある人でしたが、生前は毎日が喧嘩でしたね。
家庭内の喧嘩ではなくて、お店を良くしようとする「やり方」が違い喧嘩をしました。

例えば、お客さんにお知らせを出すとき、自分の言いたいことを何枚分もびっしり書いて封筒に入れて送ろうとするので、私からすると「いやいやそんなの誰も見ねえよ。今はメールじゃねえの」と(笑)

​​​​​​​お互いお店をもっと良くしようという方向は同じでも「やり方」の違い、「時代の違い」で喧嘩をしました。